三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」 Part.4
江戸時代、江戸城郭内と市街地とを結ぶ筋違御門に、現万世橋の上流に筋違橋があり、
ここは火除地でありながら、舟運交通と陸上交通が交わることから青物市場がおかれ、
人が集まることから興行なども加わり、活気あふれる場所であった現在の秋葉原周辺ですが、
明治になっても変わらぬ賑わいであったそうです。(三井氏論文P.19)
江戸、明治、大正、昭和と、時代の変遷に伴い、
開国、軍国、敗戦、復興、経済成長の背景に、
舟運、陸運の発展、モータリゼーションと言う転換があり、
それら状況から、戦後のお堀埋め立てが合理的手段の選択と言う経過が伺えます。
これに、オリンピック開催という性急な道路整備の必要性が、
将来設計の展望、景観配慮を欠いた市街化を招いてしまった始まりのようです。(P.21)
(Google ドキュメントからご覧ください)
上記のような時代の変遷は、建築物にも変化をもたらしました。
江戸末期、神田川周辺の建築物が占める割合は現在とあまり変わりがないほど密集していても、
幕府の禁令によって町人は三階建ての普請が認められていなかったようです。
明治期も建築技術の問題から高層建築は制限的でしたが、
技術面が高度化するにしたがって制限は解かれ、都市の高密化、高層化は加速しました。
2000年前ころから一層の建築物の高層化が進む中、
万世橋界隈の神田川はオープンスペースを確保してくれたようです。
オープンスペースとは、三井氏論文内で
1、建築物による圧迫感を感じない、開放感を得ることができる場所
2、空との接点となるスカイラインに接する場所
3、制約を受けることのない、自由な行き来が可能な屋外空間
と定義しています。
次回、スカイラインに関する話を展開したいと思います。
中野