生と死と医療の話 お茶の話 | 万世橋とわたし(神田)のブログ

生と死と医療の話 お茶の話

昨年11月ごろ、院を経由してポレポレ東中野に「あしかび」という映画を見に行ったときのこと、

醤野良子さんという方とめぐり合いました。

映画の始まる前の僅かの時間、お話をさせていただきましたときに、インド・レインボーホール(コルカタ)支援のための講演会資料と一緒に醤野さんの活動を紹介している新聞記事を受け取りました。

醤野さんは、看護師職を経て人間の終末医療のあり方に疑問を持たれ、今、介護施設でお仕事をされていながら

「三鷹 自分の死を考える集い」を主催しておいでです。

このタイトルから、怪しげな宗教活動何それ? と一瞬考えましたが、院の同期生で看護職のSさんに話をしましたら、Sさんも醤野さんのお考えに惹かれていたと、活動をご存知でしたので、まずは安心。

修士課程一年のあいだ、おそろしく時間に追われていたこともあり、その後何度か活動のご案内をいただきましたが、なかなか参加できずにおりました。

ようやく参りましたのが、今年2月末、医療に携わる大槻澄子さんの

「『家で静かに死ぬ』ということ」

という、自宅看護で授命を全うされたご主人とのお話でした。

また、この前の日曜日、2回目の参加で伺ったお話が中村仁一さんの

「死ぬのに医療は要るか」です。

これらのお話は自分にとっては、大変納得のいく内容でした。

というのは、身内に高齢者がおり、日ごろからその医療とのかかわりに漠然と違和感を覚えていたからです。

元気に齢を重ねたいとの願いは理解できますが、何事もなかったころと同じ状態を望むあまり、

10くらいの病院やリハビリセンターをはしごし、

骨格の消耗由来による症状ではないかと全員の医師に指摘されても100%直してくれるのでなければ手術は受けないと言い切り、

それほどの医療にかかれる医療制度の存在や環境にいることを満足とするどころか、

こんなに病院に行っても自分を治してくれる人、この痛さをわかってくれる医者が一人もいないと嘆き、

おまけに「自分で人生に幕が引けないから、こんな思いをしながらいつまでも生きていなくてはならない」と悲嘆にくれています。

(私たちが高齢者になるころには社会の常識は変わって「姥捨て山政策」みたいな状況になっているのではないでしょうかうぅ。

中村仁一さんの講演会や質疑のお話の中で、

「治療は治癒を目的とするもの、老化は後戻りできないもの。本来自分を治す力は自分自身にあり、医療はそれを助けるだけなのだから、自分自身に治せないものを医療に直せると思うのが間違い」ということ、

また、「本来、生と死は生活の中に近しく存在していたものであり、それがいつしか長寿と医療によって切り離されて遠い物になってしまったのだ」ということなど、

身内の日常の中に、その相容れないもの同士の混在の現実をまさしく理解しました。

だから、どうということはないのですが、ただ、自分自身については、

アゲハではありませんが、自分の人生は加工せずに、

天寿を全うできればそれ以上望むことはないなと考えています。

それが自分自身がよく生きるための覚悟なのではないかと。

しかし、今、お子様方の成長のそばに居られる方々は違います。

お子様方の成長を一緒に喜んだり、心配したり、どきどきしたり、困ったり、ともに過ごして差し上げるためには、

また、お子様を育てる方だけではなく、これから人生を築く方々、社会に貢献されて弱い立場の人のためになくてはならない方々などは、

ご自分のためのみならず、ぜひお体を大事に、メンテナンスしていただきたいと思います。


ちなみに、醤野さんのことを取り上げている最近の新聞記事として、

10月25日の徳洲新聞746号6面に「穏やかな死を迎えるための勉強会を開催」している醤野さんの活動やお言葉を下記の様に紹介しています。

「治療を否定しているわけではないのです。痛みは薬などで取ってあげてほしい。でも、どんな姿になっても生きていて、と延命治療を施すことが、果たして本人の幸せなのでしょうか」
 その疑問を出発点に、自分はどんな死に方をしたいのか、逆に今をどう生きるかを考えなければと思うようになった。そして3年前に「三鷹 自分の死を考える集い」を立ち上げ、高齢者の自然死を支えてきた施設長や、家族を自宅で看取った人などを講師に招いた勉強会を隔月で開く。高齢者だけでなく、看取る側の参加者も多いという。
「私自身は医療を貪ることなく、与えられた“授命”を受容し、花が静かに枯れていくような“自分死”をつくりたいと思います」


ところで、9月28日のブログにある、石川さんからご紹介いただいた勉強会グループのメンバーのお一人であり、

勉強会においてお茶の講義を担当された、Kさんという素敵なお茶ソムリエの方とお話していた際、

「自分のために入れるお茶って、よい味が出ないものである」ということを伺いました。

これも、納得です。

実は、私は

松本社寺建設(http://www.shajimatsu.com/http://d.hatena.ne.jp/shajimatsu/

の宮大工の棟梁ご夫妻とお知り合いで、ずいぶん前、棟梁がお弟子さんを抱えていらっしゃらなかったころ(?)にお茶をご馳走になったことがありますえへ

(当ブログ立ち上げの際にも、前々から奥様のブログを拝見していたので相談させていただきました。その節も大変お世話様でした!!)

棟梁が急須の温度をじっくりと手に感じながら丹念に入れてくださったそのお茶のお味は、

まろやかな昆布茶のようでした。

身近な街角のお茶屋さんのお煎茶でこの味が出るのだと奥様は教えて下さいました。

それ以来、当然この味をイメージして常にお茶を入れていますが、

これがまた、全然できないディナー

なのに、朝一番、神棚と仏様に入れるお茶の残りをいただくときにだけ、これに近い味がする時があるんですsao☆!!

あの味を出すには何が必要なのか、今度お茶ソムリエのKさんのいらっしゃるお店『魚がし銘茶』http://www.uogashi-meicha.co.jp/shop_01.html
を訪ねようと思う中野です。銀座にあり、ちょうど、今週末に特別な催し物もあるそうなので、ワクワクですハート

来年あたり、鎌倉の棟梁ご夫妻のところにも伺ってみようかな...


さて、当初申し上げました、三井達也氏の論文を次週から連載したいと思います。

掲載手法が未だ確立しておりませんが...Queenly