活動経緯の紹介 および 須田町商業集積備忘録
須田町北部町会長様からのご返答は、交通博物館閉館時に遺構を歩いたが、狭小な場所であり、観光地として過剰な夢を描かないほうがよいのでは?といったことでした。
また、地域に資すると思えば取り入れるし、そうでないものは切り捨てるという判断は明確に行うとも。
責任ある長の発言としては、もっともです。それが、今政治で盛んに言われているリーダーシップの発揮というそのものであると思います。
ただ、本日の神田学会におけるお話の中で、いくつかの町会長様のお話に、私としてはやや違和感のある点がなかったとはいえません。その点につきましては、もう少し自分なりに自分自身の思考を整理したうえでお話したいと思います。
今回は、もう一点、「神田ラガン訪問(2)」や、前回の石川さんの文章へのコメントで触れました、神田須田町一丁目という地域のかつての商業集積についてご紹介したいと思います。おりしも、神田明神から出ている「Mind」という氏子町活性化マガジンのH22.6月号でこの界隈を特集しており、繊維街であったことにも言及くださっています。
神田須田町という地域について、GHQ命令により靖国通り沿いにあった露店を秋葉原地域に移動させたという話が戦後史の展開としてきかれますし、神田地区の江戸時代からの話はさまざまな文献もあり(現況までをざっくりと把握するなら、「歴史・文化のまちづくり研究会 神田研究部会」 http://www.hc-zaidan.or.jp/publish/jireishu/20.pdf が参考になるかと思います。)、造詣の深い方も多くいらっしゃいますが、ピンポイントで昭和40年ごろの神田須田町一丁目(本当は二丁目にも及びます!)がこのような商業の集積地であったという話ができる方はそう多くないと思われますので、ここに載せておきたいと思います。
そのころまでは、背広は財産として、人生の節目節目に作ることが多かったそうで、また、出稼ぎに来ていた方は故郷に帰るときには錦を飾るということで背広を新調したとも言います。暮れに神田に出入りする洋服屋さんや職人さんたちは、「年内に!」という受注が多く、徹夜を続けても間に合わずに仕事をしながら除夜の
を聞いたという話や、この業界は付け払いも多いため商店主や小僧さんたちは手分けして近県にまで集金に歩きながら除夜の
を聞いたなど、活気あふれる日本の経済発展の様子が伺えます。
一般にはご存じない方が多いのですが、注文紳士服は、表生地は「羅紗屋」、それ以外の材料や職人の道具類は「附属屋あるいは裏地屋(釦屋という場合もあります)」で用意して、職人が600以上の部品を手間をかけて一つの背広に仕立て上げた作品です。
石川さんの話題に出た刺繍系をあげますと、個人の名前を内側に入れるためにネーム屋さんは数多くあり、企業や学校の刺繍の受注もありますが、それぞれの洋服屋さんのごひいきのネーム屋さんが生活が成り立つほど洋服の注文があったということです。
周囲の道路は小僧さんたちが重たい布地を何反も肩に担い、行きかっていました。
そんなこんなが、みんな今は昔です。
下記の地図で、今もなお同じところに営業継続するお店は、140ほどのうちの40軒あるかないか、しかも「その他」からが半分以上です。職住一体のお店も激減し、その分、地域には住人が少なくなりました。引き換えにビルがずいぶん立ち並び、空は本当に狭くなりました。広い空を見たいと思う時には、ひとまず須田町の交差点へ。
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ちなみに、青の13番「三省堂」(文具屋さん)は、小金井公園の江戸東京たてもの園http://www.tatemonoen.jp/about/intro.html
内に万世橋交番とともに保存されていると、同級生が教えてくれました。興味のある方は見に行ってみてください
文責 法政大学大学院 政策創造研究科 修士課程2年 中野