「教えるのはあくまで言葉であり、別に思考力ではありません。」 TA指導教諭の言葉だ。

 

私はTAとして毎週2回、それぞれ50分の授業を任されている。

私の授業では文法事項は扱わず、その代わり生徒たちは実践的なコミュニケーションに焦点を絞ってアクティビティを行う。(授業中は原則すべて日本語)

 

もう学期も終盤に差し掛かっており、失敗したな、と思った回もあれば、良かったな、という気持ちで終えることが出来た時もある。

 

ポケモンセンターゲーム、インタビューゲーム、しりとり、漢字かるた、邦画の場面説明などをやったが、最も印象的だったのは「ヘイトスピーチ」を題材に日本語でディスカッションした回だ。

 

その時私は無駄に張り切って動画付きのプレゼンテーションまで用意し、万全の態勢で授業に臨んだつもりだった。

在特会としばき隊が大きな鳥居の前で激突する、衝撃的なニュース映像を見せて生徒を惹きつけ、賛成側と反対側の意見を提示してから、表現の自由についての議論に持っていくという計画。

私がプレゼンをしている最中、生徒の反応は悪くなかった。予想通りみんな驚いている様子で、シャルリーエブドの例も相まって既にこのテーマに興味を持っている学生も多いようだった。

このまま活発な議論になると踏んでいたのだが、、、。

 

予想より盛り上がらない!!

 

意見を言う学生こそ居るものの、今考えると生徒が私に意見を述べていただけだった。。

結局その日はぐだぐだで終わった。

 

すると指導用テキストを読んで、ハッとさせられた。

 

「伸ばすのは、思考力ではなく言語力です。学生が言語の実践に集中して取り組めるような環境づくりを心掛けてください。」

 

私の役目とは何も、時事問題について偉そうに講釈垂れることではなかったのだ。

日本語を一生懸命勉強している学生に、「悪いところも見せる」なんて意気込んでいたのは、無意識のうちに生徒を下に見ていたからではなかったか。

 

生徒たちはスペイン語や中国語といった、実用性のある言語を押しのけてまでマイナーな日本語を受講している、本当に熱心な人たちである。自分は何がしたいのかといった問題意識、将来日本語をどう使うのかといった将来設計についても、私の何倍も深く考え抜いてきた人たちである。

そんな彼らに、「ちょっと啓蒙してやるか」という気持ちで臨んだのだから、それはおこがましいにも程がある。

 

また、生徒たちのディスカッションが進まなかったのは、何も彼らが無知だったからではなく、私の授業設計が「言語力」にフォーカスしきっていなかったからなのだ。

 

まず、いきなり5分にもわたる外国語のニュースを見せられ、専門用語であふれた論点を提示されたところで、第二言語習得者が議題を把握できるわけがない。

5分のニュースを見たあと要点を詳しく要約するなんて、母語でも難しい。

たとえ生徒たちが多少理解できたとしても、「表現の自由どう思いますか」などといった漠然な問題設定では、母語を用いたとしても建設的な議論など進むはずがない。

 

つまるところ、私の授業が問題にしていたのは、記憶力や思考力といった、言語力とは関係のないものだった。

 

私がするべきだったのは、このような授業だ。

 

(以下教科書からの抜粋)

 

まず資料を見せる前に、あらかじめ具体的でわかりやすい議題を明示する。

例)今からビデオを観ます。そのあと、「誰が・どこで・何を・どのように・どうした」をテーマに、ペアの人と話し合ってもらいます。そのため、これらの点によく注目して、見てください。

 

外国語の圧倒的情報量から、生徒が注目すべき点をあらかじめ絞るのだ。

そして、資料は簡単なものでいい。Youtuberがメントスコーラしてるので十分。

 

「はじめしゃちょーが・駐車場で・メントスを・コーラに・入れた」

 

これだけでも、「はじめしゃちょー」という自己紹介の聞き取り、駐車場という語彙、メントスという名称の聞き取り、入れるという語彙などなど、日本語満載なのだ。

 

見終わった後、簡潔に指示を出す。説教なんていらない。

例)ペアのうち左の人、「誰が」について意見を出しましょう。ペアの右の人は、相手の話をよく聞いて、足りない情報があれば、補ってあげましょう。一番詳しく述べられたペアが勝ちです。

 

このように、必ず生徒間で双方向な形にする。生徒と先生が問答を繰り返すのは、実践的なディスカッションからは程遠い。そうではなくて、生徒Aが生徒Bの話をよく聞いて、自分の言葉で対応する機会が大切なのだという。

 

生徒たちに必要なのは、別に教養ではなくて、日本語を喋るきっかけなのだ。

 

次回の授業でさっそくやろうと思う。

 

私の持つ、教壇に立つことでおごり高ぶってしまう権威性の愚かさを痛感した。t