な、なんだ前の投稿。

全く覚えていない。。何をやらかしたんだ俺。

 

追い込まれております。

フードジャーナリズムの授業の最終課題が、「完璧な食事を考えだし、実際に作れ」という無茶なもの。

完璧な食事か。。。

 

最近だと、印象に残っている食事は、前の夏休みにボーイスカウト引率を行ったときのものである。

私は子供たち数人とともに、野外で昼ご飯を作ることになっていた。

野外調理というのは、過酷だ。

よくあるナチュラル系オーガニック映画みたいに、きれいな森小屋で自然に優しい食事を営むとか、そんなのは絵空事である。

 

まず火おこしから始まる。しかしまずうまくいかない。

新聞紙と薪をとりあえず突っ込んで火をつけてみるが、新聞紙のみ一瞬で燃え尽きるのが関の山だ。

そのうち俺にもマッチすらせろーとけんかになったりもする。

その中でちょっと賢いやつが、無言で薪を立体的にするなどして、ようやく火が安定していく。

 

私たちの場合、調理には4時間かかった。

4時間の間、火を絶やさないためには、ずーっと誰かが張り付いている必要がある。

 

野外料理では子供たちの資質の違いが露骨に出る。

ある子は煙と汗で顔を真っ黒にしながら、必死になって火を保っている。

ある子は少しでも火が通りやすくなるように、野菜を薄く切っている。

でもある子は薪を割るでもなく、火をくべるでもなく、へらへら遊んでいる。

 

別に遊んでいる子が邪悪というわけではない。

でも公共の福祉より、自分の快楽を追求したいだけなのだ。

 

みんなのために必死に働いた子に限って、働いてなかった子にもご飯を分けてあげたりする。

 

野外料理は社会の縮図である。。

 

とにかく言いたかったのは、私の考える完璧な食事とは、みんながみんなのために作る食事ということだ。

 

みんなで協力して、みんなのために作る。だからみんなで食べるとうれしい気持ちになる。

 

幸せを誰かと分け合いたいという人の願いはみんなに共通なものだ。

ただその願いは自分の身を切り、全体に奉仕しなければ得られない。

奉仕する気が起きない人物は、自然と一人でいることを選ぶか、また不正に人の気を引こうとする。

 

みんなと喜びを分かち合う充実感を知っているものは、そもそも全体への奉仕を苦に思わない。

 

そんな根源的な人間感情が、食には表れていると思うし、人が最も簡単な形でそれを感じ取れるのは、食を通してであると思う。

料理というのは専門的な仕事の積み重ねであるからだ。

 

どんな料理のプロセスにも、一つくらいは自分の資質を生かせる場所が用意されている。

ひとりひとりが持ち場を守って、最後にみんなで頂くから、うれしい気持ちになる。