ある青年がツイッターでこんな事をつぶやいていた。


学校教育が「普通の子」のためにデザインされていて、それ故に各種の不適応が起きているんだと思う。

公立学校なのに多様な子どもが通うことを前提とされてない。



また、ある青年はこんなツイートも。


『個性』を賛美して、『違い』は排除する。






すっごく鋭い意見だなーと思った。



私もおんなじような事を感じていた。



長男が不登校になって1年経った頃から、担任の先生は長男を気にかけなくなった。


「先生は長男の登校を諦めたのだな」と思った。


当時は私が毎日学校に付き添い、ある程度の課題は一緒にこなしていた。


きっと「あの母親に任せとけばいいや」という気持ちもあったのだろう。




長男は(いや、長男も)外面はいいタイプなので、友達に意地悪したり、先生をわざと困らせるようなことはしない。



ただ学校に行きたくない。

ちょっと要領が悪くて、勉強が苦手。

それだけなのに、学校では『不登校=みんなと違う子』と扱われる。




長男のまわりには、すぐ友達の事を告げ口する子や、嘘をついてまで友達をおとしめる子もいた。

私からすると、そういう子の方が心に問題があると感じる。


でも、そういう子は先生の前では優等生なのだ。




結局

先生に都合のよい(先生が対処に困らない)子の特性は『個性』

先生に都合の悪い(先生が対処に困る)子の特性は『違い』



私はそんな風に感じてた。



『他の子と違う』というレッテルを貼られると、先生達から見放されていく。




公立に見放された子供達はどこに居場所を見つければいいのか。



全ての子供達が過ごせる場所を作り出すのが公立の役割じゃないのかな。



公立小中学校のあるべき姿が失われているように感じるのは、不登校児の親だけなのかな。