先日、5月末まで受付けていたセッションを
受けてくださったから、
こんなお話しを聞かせてもらいました。
彼女は、最近仕事を辞め、
今までのキャリアは捨て、給料は減ることになるけれど、
自分のやりたい分野の仕事に携わることにしました。
それは彼女にとって、長年怖くて動けなかった道に、一歩踏み出すという大きな決断でした。
そんな彼女に、知人は、
「王道から外れて出世コースから外れた以上、若手に使われて我慢するしかないよ」
と話したそうなんですね。
彼女は無意識にこの言葉を信じてしまいました。
なので、彼女は自分のことを、
「出世コースから外れたダメな私」
そんな風に捉えるようになっていました。
それはまるで、そんな色メガネをかけてこの世界を見てるかのように、
すべての出来事が、「ダメな私」を確認するかのように認識し、
周りの人が自分を見下し、蔑んでるかのようにさえ感じ、
何かネガティブな出来事があると、
「出世コースから外れたから〇〇なんだ」
と、結びつけて考えてしまい、
自分の決めた新たな道さえも信じられなくなり、自分を責めていました。
この状況にいるとき、本人はそんな色メガネで
この世界や、自分のことを見ていることにさえ気づかないほど、
無意識にその知人の言葉を受け入れていたのです。
こういう無意識に相手の言葉を受け入れてしまうことって、
あると思うんですね。
特に、親しい人に言われればなおさら。
親や、兄弟、友達、自分にとって影響力のある人。
そういう人の言葉は、自分の信念さえも覆い隠してしまうほど、
無意識に受け入れてしまう。
なので、自分の中心に自分がいることって大切ですよね。
他人の意見と、自分の意見を分けて捉えること。
その知人にとっては、出世コースを進むことに価値を見出しているかもしれないけど、
私は「自分のやりたいことをやる」という思いを大切にしたということを、
それをお金や、地位や、名誉など外側の価値で確認するなら、
心はどんどん追いつかなくなりますよね。
そして、出来事を事実のみで認識するということも。
「私が〇〇だから、△△なんだ」
という認識は、自分の観念(色メガネ)でみているだけ。
「私がダメだから、バカにされるような態度をされるんだ」や、
「私がダメだから、いつも言い返されるんだ」
という、思い込みでこの世界をみるのではなく、
事実のみで認識するんですね。
「相手が嫌な態度をした」や、
「相手が言い返してきた」という状況を
ただ「そうである」という事実を認識したら、
「私がダメだから」と、
自分をジャッジし、結びつける必要はまったくないんですよね。
なぜならそれは事実かはわからないから。
出来事をそのまま捉え(中庸)
良し悪しなどのストーリーを付け加えることなく
その状況に飲まれてしまわないように、
ゆっくりと呼吸して、
俯瞰してみてみると、
まったく違った世界にみえてきますよ。
