会社を出て路を右に曲がると、いつも小汚い講演の角のビルの物陰に隠れるように立ちすくむ女の路上生活者が居る。
2月の厳寒の候、雪が降り積もる日でも、ビニール傘を杖としてぼろ布のようなマントを着込み、グローブのような手袋に入れた手をその杖の上に重ね、頭からフードを被り、腰を心持ち前に折り、まるで道ばたのお地蔵さんのように微動もせずに立っている。
彼女の前には移動キャスター。その上におそらく生活道具一式だろうか。これまた、ゴミではないかと思うようなぼろ布に巻かれた何かしらの物が積まれている。いかにも臭いそうでそばに寄れない。しかし、よく見ると、乱雑ではなく、整理されて積まれている様にも見える。彼女の大切な全財産なのだろう。
この通りは職業安定所からすぐなので、人通りの多いところである。すぐ側には、コンビニがありラーメン屋があり、焼き肉屋、中華料理屋などごみごみとした下町の飲食店街である。おそらく、彼女はその店から出る残飯などで食いつないでいるのだろう。小柄で、すこし青ざめているが、病気持ちのようには見えない。顔に少し膨らみがある所を見ても、飢えてはいないと思う。
彼女の横を通るたびに憤りと恥ずかしさを感じる。「何で行政はこの人を保護しないのか。路上生活者を保護するのは役人の仕事だろう。我々は高額な税金を払っているのだ。何もしないのは怠慢じゃないだろうか。」というような憤り。「困った人に手をさしのべるのは人の道。その他大勢と同じように、見て見ぬふりをして通り過ぎる自分は、結局事なかれ主義で人生に流されている意志の弱い臆病者ではないだとうか」という恥ずかしさ。
そんな気持ちの毎日の中で、私はある行動を起こした。
その日はどんより曇り今にも雪が降り出しそうだった。自分が買っている株が急騰した。半日で月収かという金額が証券口座に記録されていた。
そんな時、まるで街の備品のように佇んでいる彼女の前を通った。
心の底で何かが動いた。
持てる者は一瞬で高額のマネーを手に入れることができる。彼女には想像すらできない額である。それに比べて、日がな一日ここに佇んでいてもその日の食べる物もろくに手に入れることはままならない。同じ日本に住んでいる人間として何かがおかしい。そんなに人間に差があるものだろうか。金や物を持っているとか、知識がある(ほんとうか?)とかそんな物はさほどの違いは無い。でも、たまたま富める者は更に富み、貧しき者はその貧しさのループから抜け出す事もできないのが現代資本主義である。何かがおかしい。人間にこんなに格差がつく社会制度は問題である。不幸を作り出す制度は変えるべきだ。格差社会と言われるようになってしばらく経つが、お恥ずかしいながら今始めて実感として現実にそれを体験した。
足が先に動いた。僕は臆病者ではない、義を見てせざるは勇なきなり。いま、彼女に食べ物を差し入れしても、どのくらいの援助になるかわからないが、何もしないよりはましだろう。隣のコンビニに飛び込み、コッペパン2つと温かい缶コーヒーをビニール袋にいれて、彼女の前に立った。
受け取るだろうかと心配していたが、自分に何かをくれる人というのは本能的にわかるのだろうか。10M手前から視線を送ってきた。何百回彼女の前を通ってもこんなことは一度もなかった。驚いた。
彼女はニコリともせず、当然のようにビニール袋を受け取った。案外したたか?
物乞いのために計算してこの場所に立っていたのかもしれない。
彼女に背を向けて歩きながら、偽善者という言葉が脳裏に浮かんだ。そう見えるかもしれないが、この行動は打算からではない、社会がおかしいという義憤、自分が手助けのできることは何か無いかとの純粋な心からでた行動だ。
恥じる事も何もない。
しかし、大海の一滴。何の意味も無い行動だったかもしれない。やはり、彼女自身が前に進めるように手助けをすることが、本当の支援なのだろうが、それは流石に私にはできない。
ヨガの教師であり私の人生の先達でもある羽成先生の口癖の「何のために生きるのか、誰のために生かされているのか。」が頭に浮かぶ。
毎日の雑事に流される慌ただしい日々の中で振り返る余裕は無かった。と言い訳がましく考える自分が居たが、「情けは人のためならず」。この行動が今までの自分を振り返る切掛けとなるならば、ことの善し悪しは別として、意味のあるものになることだろう。
そして、今日ふと立ち止まり考える切掛けを作ってくれたのは彼女である。
「ありがとう」
今度通りすがりに、そう声をかけようと思ったが、翌日の雪の日、彼女は珍しく姿が見えなかった。