日本の精神文化についてお話を致しております「日本に息づく心配り〜Les point de vue de Les Misera〜」の浅海です。
昨日の衆院選選挙における希望の党の結果を受けて、小池都知事の排除するという一言が論調の的になっています。
“排除”
確かに、刺激的な、強い言葉です。
私はこの数日、様々な方のコメントを拝読、拝聴して、2つのことを思っています。
まず一つは、言葉はやはり個性なのであるということ。
言葉を扱う講座で私が必ず伝えていることに、言葉選びを自分探しだと思って、楽しんで欲しいというポイントがあります。
例えば、ビジネスメールの冒頭に、
「メールを下さり、ありがとうございました」と書くのも
「メールをいただき、ありがとうございます」と書くのも
「メールを拝受し、心よりお礼申し上げます」と書くのも
自由。
どれも間違ってなどおらず、どの言葉を選んだかの積み重ねで、そのメールの色が決まり、その人が伝わるのです。
言葉選びは各自の環境、思考、好みなど、様々な要件の下、各自が自由に行うものです。
でもだからこそ、自身の中にない言葉は、どうしたって脳裏に浮かべることも、言うことも、書くこともできない。
そして耳で聞いても、違和感を覚えるものです。
どのような表現方法をもってお相手に伝えたいかを考え、選択したその言葉こそが、その人自身の心の表れとなり、その人そのものとなる。
つまり言葉を選ぶことは、自分の個性を形成することなのです。
今回の小池さんの発言は「排除することもありますか」という記者からの質問に答えたものである」というツイートも目にしましたが、いずれにせよ“排除”という言葉を選び、口にしたのは、小池都知事自身であり、あの日あの時の小池都知事の心や思考の表れだったのだはずです。
しかも、小池都知事はそのご経歴や立場上、一般の人達よりもずっとずっと、一つ一つの言葉の意味や、重みや、印象を、大切に表現してきた方のはず。
その方が口にした言葉ですから。
ただ、ここでポイントとして欲しいのは、その言葉を口にしたことを「使うべきではなかった」と一蹴するのはやめて欲しいなぁと思います。
だって、言葉はその人そのものだから。
確かにとても影響力のある言葉でした。
でも、多くの瞬時の判断、決断を求められてきたお立場もあるでしょうし、時には強い言葉や相手を試す言葉を口にできるからこそ、今の彼女の地位や経験値があるのかもしれません。
もしも腹の中で“排除”という言葉が一番ふさわしいと思っているのに、ベールに包んだような緩い回答をされたら、それこそ本来の小池都知事その人を知るすべが一つなくなり、私たちの選択は歪んだものになってしまうのです。
あの日、あの時、あの場所での、小池都知事の勢いや自信、心持ちには、“排除”という言葉は、違和感のない、小池都知事そのものを表した単語だったのです。
言葉には霊的な力が宿ると言い、言霊という言葉もあります。
自信に満ちている時には確定的な言葉を、不安な時にはあいまいな言葉を選ぶでしょう。
