ここのところ、胃腸の調子がよくなかったり、頻繁に気持ちが悪くなったり、とにかくいまいち体調が優れず、今日はついにダウンしてしまった。
午前中いっぱい寝込んで、何だか奇妙な目覚め方をして・・・。とりあえず薬を飲まなくてはいけない都合もあるので、フラフラと重い体を歩かせながら、階下に下りる。
起きているのもしんどいけれど、かといって、もう一度眠る気にはなれず、
しようと思いながら遅々として進めずにいたことを片付けて、妹の愚痴を聞きながらとりあえず言葉を発しているうちに、だんだんと元気が戻ってきた。なんだかんだいって夕方にさしかかる。
体が少し楽になったので、床の雑巾がけをしたり、洗い物をしたり、体を動かしスッキリしてきた。
最近、長く使わずにいるものは思い切って処分しよう、と思うようになってきたので、手をつけていなかった引き出しや箱の中を少しずつ整理している。
そんななか、あるひとつのノートが出てきた。日記だったり、説教ノートだったり、とにかく思ったことなどを書き付けていたノートだ。見ると2005年の日付が書いてある。
1ページ目に書いてあったこと。
嘘偽りのない、真実な歌を歌いたい。
ありのままのわたしを見つめて、
ありのままの友を見つめて、
愛と平和のために歌いたい。
感謝すること、主の恵みを感じること
わたしの生き方そのものが歌や音楽に表れるんだ。
「神様の愛を歌うために生まれてきたのね。」
めぐみ先生が言ってくれたそのことばが心にしみる。
どんなことにも挑戦していきたいけれど、
根底にはいつも神様への祈りがあるのだと思う
私の音楽。
私の心はいつも主にむかう。
本当にそうでありたいと願います。
その次のページを見ると、三澤先生とのドイツ・レクイエムが終わった頃の日記が書き付けられていた。
そうだ。この頃、私は人を信じられなくなって、心が荒んで苦しくて、傷つき孤独に闘っていた。
聖書を読んでも、祈っていても、どうしようもなく苦しくて。
でもちょうどその頃取り組んでいた、三澤先生のドイツ・レクイエム。
同時開催されたゼミナールにも参加していた。先生の声を通して語られる聖書のことばや色々なことが、不思議と心にしみてきて、聞きながら、歌いながら、何度も涙を流したことを思い出した。
人の声って、とても不思議な力が宿ると思うんだ。
あの時もそうだったけれど、本を読んだり、自分ひとりで黙々と考えたりしていても、どうしても呑み込めないことがある。だけど、それが人を通して語られたりすると、不思議と理解できたり、すっと心に入ってきたりすることがある。
私にとって、三澤先生という方は、そんなキーを持っている存在なんじゃないかと思う。
(先生ご自身は、おそらく私のことは大勢の中の一人で認識されていないだろうし、そんなつもりはないのだと思うけれど・・。)
さて、少し話がそれてきたけれど、私が苦しみの中を歩んでいるとき、そして、その苦しみから解放されるとき、そこにはいつも、神様の音楽がともなっていることを思った。
あのときもそうであったし、それよりも前、どうしようもなく長く苦しい挫折の中から救い出されたときも、そこに音楽が与えられていた。
きっとこれからもそうなのであろうと思う。
これは、神様が私にくださったギフトだから。
だからこそ、私は歌い続けて生きたい。歌うとき、いつだって神様が私を歌わせてくださっているのがわかる。これは私の力ではない。神様の御業なのだと。
今私は、歌えることだけでなく、祈ること、それも誰かと共に祈る、いや祈れることの恵みを思っている。
私にとって、歌と祈りは決して切り離すことのできないものだったことを思い出させられた。
愛は祈りに、祈りは歌になってゆくのだから。
いつの時代も、「嘘偽りのない、真実な歌を歌いたい。」そう思う心に変わりはないと思わされたノートとの再会だった。
午前中いっぱい寝込んで、何だか奇妙な目覚め方をして・・・。とりあえず薬を飲まなくてはいけない都合もあるので、フラフラと重い体を歩かせながら、階下に下りる。
起きているのもしんどいけれど、かといって、もう一度眠る気にはなれず、
しようと思いながら遅々として進めずにいたことを片付けて、妹の愚痴を聞きながらとりあえず言葉を発しているうちに、だんだんと元気が戻ってきた。なんだかんだいって夕方にさしかかる。
体が少し楽になったので、床の雑巾がけをしたり、洗い物をしたり、体を動かしスッキリしてきた。
最近、長く使わずにいるものは思い切って処分しよう、と思うようになってきたので、手をつけていなかった引き出しや箱の中を少しずつ整理している。
そんななか、あるひとつのノートが出てきた。日記だったり、説教ノートだったり、とにかく思ったことなどを書き付けていたノートだ。見ると2005年の日付が書いてある。
1ページ目に書いてあったこと。
嘘偽りのない、真実な歌を歌いたい。
ありのままのわたしを見つめて、
ありのままの友を見つめて、
愛と平和のために歌いたい。
感謝すること、主の恵みを感じること
わたしの生き方そのものが歌や音楽に表れるんだ。
「神様の愛を歌うために生まれてきたのね。」
めぐみ先生が言ってくれたそのことばが心にしみる。
どんなことにも挑戦していきたいけれど、
根底にはいつも神様への祈りがあるのだと思う
私の音楽。
私の心はいつも主にむかう。
本当にそうでありたいと願います。
その次のページを見ると、三澤先生とのドイツ・レクイエムが終わった頃の日記が書き付けられていた。
そうだ。この頃、私は人を信じられなくなって、心が荒んで苦しくて、傷つき孤独に闘っていた。
聖書を読んでも、祈っていても、どうしようもなく苦しくて。
でもちょうどその頃取り組んでいた、三澤先生のドイツ・レクイエム。
同時開催されたゼミナールにも参加していた。先生の声を通して語られる聖書のことばや色々なことが、不思議と心にしみてきて、聞きながら、歌いながら、何度も涙を流したことを思い出した。
人の声って、とても不思議な力が宿ると思うんだ。
あの時もそうだったけれど、本を読んだり、自分ひとりで黙々と考えたりしていても、どうしても呑み込めないことがある。だけど、それが人を通して語られたりすると、不思議と理解できたり、すっと心に入ってきたりすることがある。
私にとって、三澤先生という方は、そんなキーを持っている存在なんじゃないかと思う。
(先生ご自身は、おそらく私のことは大勢の中の一人で認識されていないだろうし、そんなつもりはないのだと思うけれど・・。)
さて、少し話がそれてきたけれど、私が苦しみの中を歩んでいるとき、そして、その苦しみから解放されるとき、そこにはいつも、神様の音楽がともなっていることを思った。
あのときもそうであったし、それよりも前、どうしようもなく長く苦しい挫折の中から救い出されたときも、そこに音楽が与えられていた。
きっとこれからもそうなのであろうと思う。
これは、神様が私にくださったギフトだから。
だからこそ、私は歌い続けて生きたい。歌うとき、いつだって神様が私を歌わせてくださっているのがわかる。これは私の力ではない。神様の御業なのだと。
今私は、歌えることだけでなく、祈ること、それも誰かと共に祈る、いや祈れることの恵みを思っている。
私にとって、歌と祈りは決して切り離すことのできないものだったことを思い出させられた。
愛は祈りに、祈りは歌になってゆくのだから。
いつの時代も、「嘘偽りのない、真実な歌を歌いたい。」そう思う心に変わりはないと思わされたノートとの再会だった。