その後、息子は休みが続きましたが、
運動会が近かった為、担任は、運転会練習に少しでも出る様にと言ってきました。
あんな風に息子に接しておきながら、
「運動会、参加しないは無いよ!」と、
選択肢をあたえませんでした。
私もこの担任が怖くなっていました。
私はいつも、ハ-トル-ムの先生に救われていました。
何も出来なくても良いから、とりあえず
運転会には、なんとか参加させなければ!
という気持ちになっていました。
もちろん息子は、担任はもちろん、学校自体が
恐ろしいものになってしまい、
人間不信と、PTSDのようなトラウマとなっていました。
しかし、私は息子にキッズ携帯から、
「スマホに変えてあげるから!」とまで、
約束し、機嫌を取りまくり、
何も出来なくても良いから、お弁当食べて帰ろうと、どうにか運動会に参加してもらいました。
学校に着いた時点で、息子は既に
顔面蒼白になっていました。
それをみて、ハ-トル-ムの先生が、医務室に案内してくれ、私が付き添い、寝かしていました。
すると、数名の生徒を引き連れて担任が来て、
「行進には出なきゃ!」と、
連れて行ったのです。
息子は、後に、担任があまりにも怖くて、言われるままにしか出来なかったと…と言っています。
全校生徒の行進が終わり、ハ-トル-ムの先生と
迎えにいくと、顔面蒼白でうずくまる息子がいました。
ハ-トル-ムの先生と、私は息子を連れ出し、
場所取りしてある体育館内へと行きました。
今日は、このまま、少し早めにお弁当食べて帰宅して大丈夫ですよと、
優しく言ってくれました。
そんな中で、私と息子は担任が呼びに来るかと
ヒヤヒヤしていました。
その運動会の直後から、
息子は完全不登校となってしまいました。
学校を信頼して、子供を任せていた担任から、
被害を受け、傷つけられ、息子も私も疲れ果て、
予期せぬ不登校という、先の見えない暗闇へと
落ちていったのです。
息子は、人が怖くなり、人のいる場所へ出て行くことが出来なくなりました。
あまりの変わりようでした。
鬱ぽくもなっていて、自暴自棄になり、
「オレ生きている意味あるの?○にたい…」
と、言って来る様になり、
親として、心底辛い時期を味わいました。
まさしく、晴天の霹靂でした。こんな事になるなんて!私の思い描いた息子の人生には
あってはならないことが起こってしまいました…
息子は5年に上がるまで、病欠しかしたことは
無かったのです。
生活がガラッと変わってしまいました。
悔しくて仕方ありませんでした。
正直、賠償責任問題だと思いました。
事故となんら変わらない出来事でした。
行けないまま6年では、特別支援クラスとなりました。
6年生に上がってからは、校長や、教頭、ほかにも沢山の先生が総取っ替えとなり、子供の発達に詳しく、理解あるという新校長らと顔合わせがあり、私に、直に謝罪がありました。
他の親御さんから聞きましたが、
当時の校長は、消しゴムハンコばっかり作っていたようです
不登校に突入した頃、息子は鬱の様になっていました。ここで、知人から紹介されていた
メンタルクリニックに、初受診しました。
診断結果は
自閉スペクトラム、ADHDでした。
後に、ASDも加わり混合タイプとなります。
これが、不登校に突入する、直接の原因でした。
細かくいえば、他にも、4年時の出来事ですが、
担任の先生の自己判断で、親の私に確認もとらず、通級を受けさせない先生もいました。
私は通級責任者から、直に謝罪されました。
とんでもない事です!
4年時の通級指導内容は、とても大事で、私も親として、とても受けさせたい指導だったのです。あってはならないことが、3件、息子の身に降りかかったのです!
もう、本当に息子の通っていた学校には、
踏んだり蹴ったりという実態がありました。
暴言を吐きまくり、問題となった特別支援学級の先生は、やはり、鬱病だったそうで、辞めていきました。
被害に会った5年生の保護者のみ、学校に呼ばれ、PTA会長や副会長から、お話がありました。召集されて、初めて内容を知る親御さんも
いらっしゃいましたが、学校側からは、誰1人として、話もありませんでした。
そして、さらに問題の担任は、他の親御さんからの情報で知りましたが、
以前、この学校に配属された頃、
体罰騒ぎを起こしたそうで
その後3年間は
担任を任されず、教師への指導関係を任されていての、久しぶりに持つ、担任だったのです。
なんてこと!
もちろん、一部の先生がやらかした事ではあっても、それは息子にはとてつもなく、大きな衝撃であり、マイナス要因となってしまったのは
紛れもない事実でした。
※訪問ありがとうございます!
この内容に、一切の脚色はございません。
全て私達、親子に降りかかった真実です。
続く…