昨日の続きです。


あ、今日はツッコミなしで書きます。


芸術家さんには、

知られたい、賞賛されたい、稼ぎたい、後世に残るものにしたい、

という「自身の功名心」と

より良いものにしたい、美を追求したい、

という「向上心」の双方があるのかもしれませんが。


功名心が向上心を上回るようだと、それは「天への奉納」には向かないのかな?と思うことがあります。


天、神さま、何と言えばいいのかわからないけど、たいていの宗教では壮麗な建造物を「祈りを捧げる場」にしてるのではないでしょうか。


そして、絵画や工芸品などもそこにあったりしますよね。


権力者、富豪層も壮麗な建物に住んで芸術品を集めているのでしょうけど、宗教的な場にはそれにふさわしいものだけが飾られてきたように思います。


そして、そういう芸術品たちとは違って、歌舞音曲は後世に残るものではなかったのではないでしょうか。


もちろん、その様子を描いた絵画や、音楽なら楽譜などにして、そのときのことを伝えようとはしてきたと思いますけど。


録画できるようになるまでは、そのときその場にしか存在しないものだったでしょうから。


それこそ、「天に奉納」するものになったのかな?と感じました。


野村萬斎さんが「狂言に携わる者の使命」とおっしゃっていたのも、あの時期あの場所での鎮魂の舞を「歌舞音曲を天に奉納してきた伝統」を受け継いでこられたからなのかもしれないと思いました。


もっとも、私は、宗教にも歴史にも芸術にもとんと疎いものですから、全くの見当違いという可能性もありますけどね。


8日、現地で見たときに、これは鎮魂の舞で天に奉納するものと感じた、それは私が受けた印象だったので…間違えていたとしてもまあ、芸術音痴の戯言と思っておいてもらえれば…


…………


以前、羽生結弦選手がまだアマチュアの試合に出場していた頃、「勝手に加点」という内容のブログを書いたことがあります。


ええ、あまりにもジャッジが羽生くんへのGOEを出し渋るもので、「本当はこのくらいでしょ?」→「いや、もっともっと高くてもいいでー」と、やっていたわけです。


でも、何がきっかけか憶えてないんですけど、あるときからそういうのをやめてしまったんですよね。


ジャッジが本来つけるべき得点より低かったぶんは、「スケートの神さまへの奉納」になってきたのではないか、だから羽生くんはずっと危うい場面でも守護されてきたのではないか、と思ったからなんです。


そして今では、得点ではなくて

「氷上舞そのものを奉納」している感じがするので…


そんな感覚でスケートに向き合っているのは、羽生くん以外にそんなにいないでしょうね。


だから野村萬斎さんが羽生くんを「司祭」とおっしゃってくださったのかな?と思いました。


名声や、賞賛や、それに伴う稼ぎも貪欲に求めているかもしれないけど、

というか、芸術家にはそのくらいの功名心がなくてどうする?と思ってますけど、

それ以上にもっと、

より良いもの、最高に美しいものにして天に捧げる、

そういう意志が強いのではないでしょうか。


だから心が揺さぶられ、魂が震えて、記憶は薄れゆこうとも、忘れられない感動が胸に焼きついているのだと思っています。


読んでくださってありがとうございました。