伏線回収だったのかも?という話です。
羽生結弦選手が、試合の練習のときにずっとカメラなどで追われていたことも。
シェアプラクティスや、単独アイスショーでの6分間練習や、ノッテステラータ公演での公開練習につながっていますよね。
コロナ禍で練習拠点のトロントに行けずに、リモートで指導や振り付けしてもらっていたことも。
ご自身で練習内容を考えるきっかけになったり、長距離の移動しなくても振り付けしてもらえる利点につながりました。
こんなふうに、物語なら伏線回収と言いたくなるようなことが、羽生くんにはわりと起こったりするんですよね。
平昌オリンピック後すぐにプロにならなかったことも、
○オトナル、オリジン、レミ、天と地と、ロンカプという素晴らしい競技プログラムたちができた
○4A挑戦を世界中が見守るオリンピックで行えた
○プロ転向後最初のアイスショーを単独でできた
○東京ドームGIFTから声出し解禁になり、満員の観客から喝采を受けた
ことにつながりました。
と、これくらいはさっと思いつくんですけど。
まだまだあるような気がします〜
…………
言葉の持つイメージはわりと固定概念につながったり、心や行動を縛りつける要因にもなるのではないでしょうか。
読んだことのない書籍でも、タイトルを知っていたら何となく「そうするのがいいのかな」と思わされることも。
そう感じたのは、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉なんですよね。
羽生くんにとって「置かれた場所」はどこなのでしょうか?
フィギュアスケートの試合?
アイスショー?
練習拠点?
偏向採点で精神的虐待されながら、ファンをATM扱いされるところ?
私から見たら、虐待しながら搾取するようなあいえすゆうやすけれんにいつまで縛られているのだろう?と思うような数年でした。
それもこれも、置かれた場所への愛着があったのかもしれないし、そこを離れることに罪悪感や敗北を憶えていたのかもしれませんよね。
だけど、思うんです。
人間は花とは違って、
「置かれた場所よりも綺麗に咲ける場所に移動する権利を持っている」のだと…
まして、根を張れない狭さで、陽光が当たらない位置で、降水量が不適切で、「見たいと望む方たちが遠ざけられている場所」になら、
いつまでもそこに居ないといけない理由はないのだと。
今は、陽光をたっぷり浴びて、ちょうど良い量の水を含んだ大地でのびのびと根を張り、大輪の華麗な花を咲かせている感じがします。
そして、「見たいと望む(私たち)ファン」に向けて、そのスケートを思う存分見せてくださっています。
…………
羽生くんがプロになってから、MIKIKOさんに振り付けてもらったプログラムはとりへびだと思うんですけど。
従来のフィギュアスケートの固定概念から離れたことで、飛躍的に表現力が増したように感じました。
それまでも素晴らしい表現力だったと思うんですよ?
でもそれは、「現在のスケート界での最高峰」で、
とりへびの羽生くんはそこからさらにひと皮と言わず10も20も皮がむけた、(へびだから脱皮した?)(^◇^;)孤高の領域へ。
エコーズではさらに、氷上の身体表現芸術にまで高めたように感じます。
こんな向上心溢れる方を競技の枠に閉じ込めてはもったいないですよね。
そう思うくらいに、プロになって競技の枷から解き放たれた羽生くんは眩い輝きを放っています。
それを愛でることのできる時代に生きられるって幸せ❣️🥰
読んでくださってありがとうございました。