GIFTで羽生くんが何度も「1人」だと孤独を全面に出していたのに、そういう相手がいたんかーい、というように感じた方たちがわりといたようですね。


(^_^;)


フォローしているブログでは、芸術家としての孤独というように書いてあったので、そういう読み取り方もあるんだなと…やはり私は芸術音痴なのだろうなと思いました。


まあ、私の芸術に対する感性は、「羽生結弦のスケート」を素晴らしいと感じるところに100%振り切った、ということにしておきます。


私があのGIFTから感じた孤独は、

人類普遍の誰もがある程度感じるものと、

羽生くんが個人的に感じたものと、

両方が溶け合っているのではないかということと、もうひとつ。


アスリートとして、競技のトップとしての孤独をここで吐露したのかもしれないというものでした。


あー、芸術については全く考えもしなかったあたり、私はやっぱり羽生くんをアスリートとして好きになったんだなぁ〜とわかりましたけどね。


(⌒-⌒; )


人類普遍の孤独は、

家族がいても、

配偶者がいても、

子どもが生まれても、

友人がいても、

仲間がいても、

自分は1人きりだというだけのことです。


手っ取り早く言えば、けがしたら痛いのは自分だけという…


親が、痛みに苦しんでいる我が子に「代われるものなら代わってやりたい」とどれだけ願っても、それが叶えられたことは一度もないので。


ただ、その痛みに寄り添ってくれる相手の思いを感じ取ることで、乗り越えられる力が少しでももらえるならそのほうがいいなとは思いますけどね。


お腹がすくのも、ご飯を食べるのも、自分のことは他者が代わってはくれません。


まして、学ぶこと、練習すること、誰かを愛すること、試験も、試練も、自分の体験は自分だけのものですよね。


自分の心身は自分だけのものなので。


そういう、思いや体験が「1人だ」と感じるなら、それは誰しもが感じるものなので、それを物語に落とし込んでアイスストーリーにしたのだとしても、それで成立するのだろうなと。


ですが、アスリートとしての孤独は…


あいえすゆうの採点がまともであれば、

すけれんの依怙贔屓がなければ、

あれほどには感じなかったのではないか?と、思わずにいられませんでした。


…………


2014年のSOIで、織田さんとのトークがありました。


その中で羽生くんは、「もっとみんなで強くなったらどんなふうになるか、ワクワクしている」というようにおっしゃっていたんです。


そしてそれは、2015年GPFまでは叶いそうに思ってました。


羽生結弦選手というトップに対して、

高難度ジャンプで、

エレメンツのクオリティで、

スケーティングスキルで、

表現力で、

それぞれが得意なことを活かして挑んでいく、なんて素晴らしい時代になったのだろうと、私もワクワクしていました。


その数年の、私の勝手な印象では…

どれも、トップは羽生くんなんですが、次点争いとするなら…

○高難度ジャンプ→ボーヤンくん、宇野くん、ネイサンくん

○エレメンツのクオリティ→フェルナンデスさん、ジェイソンくん

○スケーティングスキル→Pチャンさん

○表現力→ジェイソンくん

あたりを想定してました。


コリヤダくんやヴィンスくんはちょっと、まだよくわからなかったので…


高難度ジャンプさえ跳べるようになれば、一番のライバルはジェイソンくんだなぁというのが、正直な気持ちでした。


ですがジェイソンくんは、なかなかそれができなかった。


高難度ジャンプがないと、せめて2種類以上のクワドが跳べないと、当時平昌オリンピックで表彰台に乗るのは難しいだろうと予想してました。


だから、その時点でもう、ジェイソンくんのみならず、クワド1種類までの選手たちはメダル争いから脱落したような感じに受け取ってました。

ソチのメダリストのテンさんも、何故か日本で人気とか言われていた(実際は振り付けと通訳ができるから便利だっただけ?の)ジーさんも、トップ争いじゃないよなぁ〜と。


そうなると、パーフェクトパッケージの羽生くんに対して、それぞれが、自分の苦手なところも伸ばしていかなくては、本来なら対抗できなかったはずだったんですよね。


2種類クワドのフェルナンデスさんとPチャンさんは、全部のジャンプを成功させてノーミスする他ない。


3種類以上に増やすというのは、年齢的に無理だったでしょうし。


この2人は、それぞれ、ベストを尽くしたと思っています。


コリヤダくんとヴィンスくんは、高難度ジャンプを入れて安定した演技ができるか未知数…というか、本番になってみないとどうなるかわからない感じでした。


そして問題は、高難度ジャンパー若手3人です。


最初は、2年連続世界選手権表彰台の、ボーヤンくん有利と思ってました。


ですが、宇野くんが世界初の4F成功で、高難度ジャンパーに名乗りをあげると、情勢が逆転したような感じになりました。


このとき、やたらと宇野くんを持ち上げる動きが、各方面であったように思います。


さらにそこに、ネイサンくんが加わりました。


クワドが合計何種類、何本なら優勝ラインなのか予測できない状態に。


けど、ボーヤンくんに関しては、ジャンプ以外のクオリティも、スケーティングや表現力も、それまでの世界王者(Pチャンさん、フェルナンデスさん)の域には到達できそうもないと思いましたし、実際、GOEやPCSもそんな感じでした。


そして私には、宇野くんもネイサンくんも、それほどのクオリティもスケーティングスキルも表現力も、あるようには感じられなかったにも関わらず…GOEもPCSも、ずいぶん高く評価されているなと感じられたんですよね。


このとき、その「大盤振る舞いしてもらえる採点」に甘えずに、本当に自分のエレメンツのクオリティを上げて、表現力を磨いてくれていたら。


羽生くんの望んでいた、みんながもっと上手くなっていくとどんな世界になるのか?が、見えたはずだった…


恣意的採点により、甘やかされたまま高得点をもらえる選手たちと。


羽生くんは、ご自身の努力と感性で身につけた実力と実施だけで、自国のすけれんまで敵方という中で、闘わないといけなかった平昌オリンピック。


それはどれだけ孤独だったのだろうと…


本当は、表現力のあるスケーターさんたちとも上位で争いたかった。


本当は、GOEで高くもらえるならこのくらいでいいや、ではなく、もっとクオリティを高めて挑んできて欲しかった。


本当は、自分のいる高みをみんながもっと目指してくれると信じていた。


なのに誰も、ここまで来てくれない…目指すことさえしてくれない。


そんな孤独だったのではないか?と、私は感じたんです。


GOEとPCSがまともに採点されていたら。


勝つために、必ず選手たちはそこを強化してきたはずです。


それがどこまでできるようになったか?は、わかりませんが。


同じ高みをみんなで目指すことさえなく、1人きりで挑み続けた孤高のGOATの孤独の叫びが…


GIFTで表現されたのかもしれない。


そう思いました。


読んでくださってありがとうございました。