久々に、「少数派?かもしれない意見」です。
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GPFが行われているようですね。
私は見てないんですが、りくりゅうが優勝‼️したのだそうで。
日本ペア初の快挙❣️ですね。
おめでとう㊗️ございます
一方で男子は、日本勢最多タイの4人出場。
誰かは必ずメダルを取れるという状況だというのに…
羽生くんの3年前のGPFを懐かしんだり、点数を比較してレベルが低下したと嘆いたり。
挙げ句の果てには「こんなのはフィギュアスケートではない」とまで言われているようで。
う〜ん…
はい、ここで、少数派かもしれない意見になります。
フィギュアスケートは、本来の姿に戻ったのではありませんか?
元はと言えばヨーロッパで貴族が氷に図形を描いたのが発祥なのだとか?
つまりはそういうことでしょう?
貴族社会とは、
○生まれつきの身分である程度決まる
○支配者階級であり、搾取する側である
○勝敗も何が良いものかも高い身分を持つほうが決める
それに対して、民衆は
○支配者階級の決めたことに逆らう権利を持たない
○面白くなくても民衆は領主のすることに喝采をおくらなければならない
○つまらないものでも「これが芸術だ」と言われれば頷く他ない
と、まあ、こんなところでしょうか。
数十年前?百年くらい前?のフィギュアスケートって、どんな感じだったのか知りませんが。
貴族がスケートして遊んでいる間も、民衆は働かないと生活できなかったのでは?
それを「○○卿が滑るのを見て拍手しないといけない」なんてことにつきあわされたのだとしたら、気の毒だなぁ〜
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人類は進歩しているのか?
少しは、公平な社会になってきているのか?
少なくとも、ある程度は実現する方向になっていたのだと思います。
フィギュアスケートをスポーツという面で見ると、ジャンプの種類や回転数に応じた得点がもらえるなど、単に「6.0満点で評価する」よりは進歩したはずでした。
芸術という面で見ると、最初から「フィギュアスケートは芸術だ」という派が多かったのか、スポーツとしては明らかに優位なはずの選手が「芸術性が云々」で勝てなかったりしたときも、多かったのでしょうね。
エンターテイメントという面で見ると、EXやアイスショーでは色々と工夫もあったのではないでしょうか。
そんな中でもやはり何度かの転換点はあったのだと思います。
ディック・バトンさんはフィギュアスケートを「劇場」だとおっしゃってましたよね。
たぶん、当初は比重が高かったはずのコンパルソリーがどんどん隅に追いやられてとうとう廃止されたのも、観客が見たいと望む「フィギュアスケートという劇場」ではなかったからなのでしょう。
日本で初めて開催された冬季オリンピックは1972年の札幌だと思いますが、規定(コンパルソリー)で出遅れて銅メダルに終わったジャネット・リンさんの人気が高かったのも、フリーのほうが「見たいフィギュアスケート」だったからなのでは?
日本選手たちも、芸術だの(容姿や体型は仕方ないにしても)音楽の表現だのといった部分でなかなか欧米勢に敵わない(もしくは評価してもらえない)ところを、主にジャンプというスポーツとしての面で切り拓いていったのでしょう。
○佐野稔さん→5種類のトリプルジャンプ
○伊藤みどりさん→3A
というように。
芸術という、「専門家に『これが芸術だ』と言われれば頷く他ない」もので太刀打ちできないなら、誰が見ても高難度の技で勝負する‼️という気概は、見事なものですね。
評価しないわけにいかないもので、日本勢は道を切り拓いてきたのでしょう。
スポーツとして公平に、公正に。
芸術として各国の文化や歴史に敬意を持って。
エンターテイメントとして、ジャッジだけではなくて観客が喝采をおくる選手に高得点を。
多少ブレたり、後退したりもしながら、挑戦と完成度のバランスを取りながら、それでも僅かずつでも競技としては進歩してきたのでしょう。
羽生結弦選手という、全てのレベルを一気に引き上げるスケーターが出てくるまでは。
ええ、そりゃもう、これまでの選手たちとは全く比較にならないほどの、
○スポーツとしてのレベルを上げて
○芸術性を高めて
○フィギュアスケートを見たことのなかった国の方々にまで「見たい‼️」と思わせるものを氷上に描くことができる…
そんな、桁違いの実力と魅力を持ち、劇的な勝利を得て喝采を浴び、人種も国境も超えて圧倒的に人心を惹きつける…
そんなことができるのは、羽生結弦選手ただ1人きりなんです。
なのに、羽生くんに勝つ選手が出てくれば、その選手が人気を引き継ぐことができると考えた人たちが、採点を歪めて羽生くんを低く評価したんです。
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ものを測るときに何を使うのか?
羽生くんのスケートはもう、あいえすゆうの物差しでは測れなくなっていたんです。
30cmの物差しでは、30cmまでしか測れませんよね?
月までの距離を物差しでなんて、測れないんです。
無理に、低い位置に見える月に物差しをかざして、「25cmだ、だから28cmの選手のほうが勝ちだ」とやっても、月が遠くにあることは見たらわかるんです。
そうやって、めちゃくちゃな測り方で競技を歪めて、貴族が「これが芸術だ」と言えば民衆が頷く時代にまで逆行してしまったんです。
そして、そこまで桁違いのものを違う測り方で歪めて測ってしまったら、もう、26.5cmと27.1cmの差なんて測るのもバカバカしくなるでしょう?
あ、なんとなくこっちのほうが長い…長いことにしとこう。
あいえすゆう卿もこっちを長いということにしておけと、おっしゃっているし。
というあたりでしょうか。
だから、まあ、フィギュアスケートはそういうものなんじゃないんですか?
私は、より正しく公平にしていこうとするならフィギュアスケートを競技として見ていけたと思いますが、あいえすゆうが好き勝手に採点するものはもういらないんです。
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「羽生結弦のスケート」はもう、フィギュアスケートを超えたものになった。
ならば私は、フィギュアスケートよりも「羽生結弦のスケート」を見るほうを選びます。
そして、桁違いの選手の実力を低く評価するために物差しをぞんざいに扱ったあいえすゆうが、まともな測り方をするようになるか?を遠くから見ています。
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さて、面白くないから?見応えがないから?廃止されたコンパルソリーですが。
もしもこれから先、羽生くんが見せてくださるのなら、それは見てみたいなーなんて密かに思っていたりして。
6練もクールダウンも見応えあるものだったので、ひょっとしてコンパルソリーも…❣️
読んでくださってありがとうございました。