ブログを書いているとときどき、助詞の使い方に迷うことがあります。
へ?に?を?
いやー、普段しゃべるときは関西弁なんですが、関西弁は主語のあとに助詞をつけないことがわりとあるんですよね…
「あの人優しいやんなぁ」
↑は
「こっちの店行こう」
↑に
「羽生くんのスケート好きやわー」
↑が・を
「美味しいもん食べたい」
↑が・を
入れないとわからないかもしれない助詞を省く…
だから標準語で書こうとすると、そこでときどき迷うんです〜
…………
意識して「この言葉は使いたくないな」と思って、ほとんどブログでは使わなかった言葉もあります。
「〜と言えば嘘になる」
「〜しかない」
というものです。
人間の心なんて、100%何かで占められていることはないと思っています。
だから、「〜と言えば嘘になる」というのは、100%ではないということでしょう?
それって普通なんじゃないんですか?
逆に、「〜しかない」というのは断定ですよね。
100%だということでしょう?
それってあり得ますか?
私が、「羽生くんのSEIMEI様には大好きしかない」と言えば、何故か納得されそうな気もしますけど。(⌒-⌒; )
大好きだけど、大好きだけじゃなくて、
○カッコ良くて惚れ惚れする
○点数の壁を粉砕したときに呆気にとられた
○ボストンの世界選手権の映像は未だに見られない
○平昌オリンピックシーズンのフリーがSEIMEIと知ったときに、夢かと思って何度も頬をつねった(痛かった)
○四大陸選手権のときのSEIMEIには違和感と痛みを感じる
○シェアプラで3回目に挑んだときにはゾクゾクした
○プロローグの6練からのSEIMEIはめっちゃ嬉しかった
…あかん、いくらでも出てくるがな。
とにかく、「大好きしかない」わけじゃない、何重にも重なっている思いがあるんです。
あと、
「〜過ぎ」
という言葉もあまり使いたくないんですよね…
どこからが「〜過ぎ」なのか、何でもそんなふうに強調してしまうと、本当に強調したいところがわからなくなりそうとか思ってしまいます。
…………
羽生くんの使う言葉で気になるものはいくつかありますが、「恐れ多い」…もしくは「畏れ多い」というものが出てきたのが、確か、野村萬斎さんとの対談のときだったと思います。
この言葉を使うって、よほどのことだと思うんですよね。
日本人のもつ感性じゃないと、説明しにくいというか…
自然、天地、神仏への畏怖や敬意を表すこともあるでしょうけど。
人間に対しては、身分や立場を考えたり、先達への畏敬の念がないと出てこない言葉のように思うんです。
羽生くんは野村萬斎さんにお会いしたときに、何を感じたのでしょう。
歴史ある狂言の世界で生きてこられた方への、さらに遥か昔に実在した安倍晴明様を演じたことへの、その年数の重みというものへの畏敬の念があったのかもしれないと感じました。
…………
自然や天地に向かっての思いも、日本人独特のものがあるような気がします。
もしかしたら、世界中どこにでもあったのかもしれないけど、欧米の文化で自然への敬意というものをあまり感じないんですよね…
そんな文化の違いを超えて、羽生くんとシェイリーンさんが作り上げ磨き抜いたSEIMEI。
やはり特別だと感じてしまいます。
読んでくださってありがとうございました。