より広い範囲の方たちからはどう見られているのか?


フィギュアスケート界は、その視点に欠けているように感じます。


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フィギュアスケートの解説やファンの方たちの感想などだと、ときどき「私はこの人と同じものを見たのだろうか?」と感じることがあります。


また、よく「○○選手はバレエをしていたから」とか、「○○選手の音楽表現は素晴らしい」とか、「○○選手は今シーズン、表現に力を入れてきましたね」とか言っていたりするけれど…


本当にその部分が優れているのか、努力の成果がわかるほどなのか、疑問に思うこともしばしば。


それで、よく考えてみると、そういう発言のほとんどは、スケート関係者が「採点に沿って」されているんですよね。


酷いときには、「ジャンプの癖を直してきました」と選手本人が発言すると、そのジャンプのエラーや回転不足が(以前は取られていたのに)つかなくなったりしてます。


そして、私には、以前と比較してどう改善できたのか、わからないんですよね。


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体の使い方について、バレエやダンスなどの(フィギュアスケート以外の)専門家の方たちが、PCSで高得点をもらった選手たちを絶賛していたことがどれだけあるのでしょうか。


寡聞にして、羽生くん以外のスケーターさんのことを絶賛している舞踏家さんを存じ上げないのですが。


また、音楽の表現に関しても同様です。


音楽家さんがスケーターさんの音楽表現を絶賛しているのは、羽生くんについてしか知りません。


そういう、他の分野の芸術家さんたちが、「フィギュアスケートを見て、これは素晴らしいと思った」ときに出てくる名前が、PCSで高得点をもらっている選手たちと同じとは言えない。


これが、フィギュアスケート界の採点の迷走を表していると思っています。


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フィギュアスケート界の方たちは、その世界で生きていて、これからも生きていくのですから。


採点に沿った言葉じゃなかったら、その発言の責任を問われますよね。


そこから先は、長いものに巻かれるか、自身の主張を貫くか、ということになります。


でも、音楽家さんたちや舞踏家さんたちは、それぞれご自身の生きていく道がフィギュアスケート界とは離れた場所にあるんです。


そういう方たちは、フィギュアスケートに対して、採点への忖度も大国の思惑も「知ったことじゃない」でしょうね。


それこそ、大したことないものを(採点に沿う形で)絶賛したら、自身の見る目を疑われますから。


だから、フィギュアスケートからなるべく遠く離れた方たちにとって、この競技がどう見えるのか、本当に感銘を受けるパフォーマンスをしているのは誰だと思うのか、知りたいと思うんです。


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以前羽生くんは、「フィギュアスケートを好きになってください」という発言をしていたと思うんです。


それがいつだったのか、記憶が定かではないんですが。


そして今では、「羽生結弦のスケート」という言い方になっています。


羽生くんが好きで、羽生くんがファンにも好きになって欲しいと望んだフィギュアスケートは、どこに向かっているんでしょうね。


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羽生くんが望むなら、フィギュアスケートを好きでいようと思ってました。


それを依怙贔屓採点で壊されたような気分でした。


これから先も、羽生くんのスケートは見ていたい。


でも、あの採点へのストレスが、「羽生結弦のスケート」以外のほとんどのフィギュアスケートを、見たくないものにさせてしまったんですよね。


羽生くんが競技から離れたことで、私(たちファン)は羽生くんのスケートをストレスなく見ることができる。


もしかして、羽生くんは、ご自身が、そして羽生くんのファンである私たちが、フィギュアスケートそのものを嫌いになってしまう前に、「羽生結弦のスケート」をそこから切り離すことを選んだのかもしれない…


そんなふうに感じた、この7月下旬でした。


私の勝手な思い込みでしょうけどね。(^_^;)


読んでくださってありがとうございました。