今日はちょっと重い話になりますので、そういうのが苦手な方はこのまま引き返してくださいね。


(おまけに、かなり長いんです)


…………


もしも家族が余命宣告されたら、それを当人に話しますか?


私は、自分のことは知っておきたいから話して欲しいと思っています。


夫は、自分の場合なら話さないでいてくれと言ってました。


…………


息子たちに、「個人情報が漏れるようなことはするな」と言われてますので、病状などについては詳しく書きません。


それでも、書いておきたいことがあるんです。


…………


義母はたまに体調を崩すことはあっても、おおむね元気に過ごしていたのですが、昨年10月末くらいからちょっと様子がおかしくなりました。


11月に入ってすぐに、これはもうあと1週間くらいしかもたないと担当医の先生に言われました。


手術は高齢のために体力的にもたないだろう、延命だけならできなくはないが、ずっと管に繋がれた状態になると。


義母はもともと義祖母の介護をしていた頃から、「あんなふうに(管に繋がれて寝たきりに)なってまで生きていたくない」と言っていたくらいです。


本来なら、脳梗塞で右半身麻痺と言語障害になった状態で、10年以上も生きているのは不本意だったのかもしれないと思ってました。


それでもその、およそ15年を生きていたことで、義母は孫たち全員が成人するのも見届けられましたし、孫娘の結婚式にも参列できたし、ひ孫の顔も見ることができました。


だからもういいのではないか、と思いながらも…


同時に、でもそれは私(たち夫婦)が決めてもいいことなのか?という疑問もありました。


義母が元気で自分で判断できるなら、どうしただろうか?


どう考えても、義母なら「もうええて、そんなん、寝たきりで命だけ長らえたかてしゃあないがな」と言いそうな気がするんですが。


一方で、戦時中に生まれて、厳しい時代もずっと「それでも自分から死にたいなんて思わんかった」と言ってましたから、生きたいのかもしれないという迷いもでてくるんです。


私がどう考えても、当人に尋ねなければその答えはわかりません。


そしてその機会はもう、この世では得られないんです。


わかっていても、何度も「これで本当に良かったのだろうか」と考えてしまいます。


…………


夫から、何も告げなくていい、延命もしなくていいと言われてから義母が亡くなるまでの間に。


私は、なるべくそれまで通りの態度でいようと思いました。


メソメソするのは今じゃない。


義母が、最後まで、「これまで生きていて良かった」と思うように過ごせること。


それを目標にして、頑張り抜けたと思っています。


元気に明るい声で話しかけて、具合が悪くなさそうならそれまで通りの生活をしようと。


ですから、ご飯もちゃんと同じくらいの量で用意しましたし、動けるようならトイレにも行ってもらってました。


これなら、そんなに早くどうかなるということはないかもしれない…そんな甘い考えは2〜3日で覆されました。


食べられない、飲み込めない、起きてられない…


次第に意識がない時間が増えて、呼びかけても反応がないようになり…


延命はしないと決めていても、最後はお医者様に看取っていただかないといけません。


往診してもらっていた主治医の先生が、お一人で診察している個人医院なので、急変に対処できるとは限らないということでしたので…


意識がなくなったら救急車を呼ぶ、そして、病状と「延命をしない」ということを理解して受け入れてくださる病院に搬送してもらう、そう決まりました。


呼びかけても答えてもらえなくなって、予定通り救急車を呼んで入院してもらって…


数日後、義母はあの世に旅立ちました。


そして、義母は、「あと1週間くらい、早ければ4〜5日かもしれない」と言われてから、1週間よりも長く生きていてくれました。


そして、そのおかげで、義母のひ孫のうちの1人のお祝いができたんです。


神社でのお祝いごとは、喪中ではなかなかできませんよね。


ちょっとだけ意識が戻っていたときに、そのときの写真も義母に見て喜んでもらえました。


義母が頑張ってくれたから、ひ孫のお祝いごともできたのだと思えば…


最後まで、自分の息子たち、孫たち、ひ孫たちのために生き抜いてくれたのだなと感じました。


…………


義母が亡くなってから、私は、そんなに泣きませんでした。


自分の祖父母のとき、義父や義祖母のとき、私はもっと泣いていたのにと思うと、何だか冷たいのかもしれないと人ごとみたいに感じました。


むしろ、お医者さまに余命宣告されたときのほうが、泣いた気がするんですよね。


そして、自分がホッとしているのだということも感じてました。


それは、主に「義母がそれほど苦しまなくて済んだ」ということと、あとは…


「自分が(介護虐待などするほどに追い詰められることなく)最後まで『優しい嫁』でいられた」ことに、ホッとしていたんです。


義母が私に良くしてくれたから、私もそんなに負担に思わずに介護できたのだと思っています。


それを全うできて良かったと…


それでも、泣かない私はおかしいのかもしれない。


あるいは、義母に病状を知らせてないから、メソメソしないようにと自分の心に蓋をしてしまっているだけなのかも。


義母の葬儀に来てくださった方たちの涙につられては泣いた。


フォローしているブログでの、猫ちゃんのことでも泣いた。


でも、私自身の「義母が亡くなった悲しみ」には、いつ向き合ったのか、まだちゃんと向き合ってなかったのか、そんなふうに思ってました。


それが、北京オリンピックで、羽生くんの「春よ、来い」を見たときに…


あまりの美しさに、義母と一緒に見たかったなー…と。


そのとき、やっと、まともに義母への思いに向き合って泣いたんです。


私は、羽生くんのスケートを義母と一緒に見たかった。

私は、夫や息子たちとともに、義母と一緒にもっと楽しい時間を過ごしたかった。

私は、義母に、もっと(うちの息子たちだけでなく)孫たちに会える時間を持ってもらいたかった。


義母は、幸せでいてくれただろうか…


答えはわからないままだけど、私はそのときの私にできることをしたのだから、それはもういい。


ただ、一緒に見たかったと思うことがまたあるなら、義母のことを思い出しながら見ようと思ったんです。


…………


羽生くんは北京オリンピックのときに、(たぶん被災地の方たちに向けて)「あなた方の何かになれましたか?」とおっしゃってました。


私にとっては、「感動の涙で自分の心と向き合う」という、得難い経験をいただきました。


それは他の誰からももらえないものです。


羽生くんのスケートは、何ものにも替えられない。


そしてまた、何度も思ったように、同じことを思うんです。


「羽生くんのファンになって良かった」


読んでくださってありがとうございました。