天罰という言葉から、何を連想するでしょうか。
何か悪いことをした人に、災難が襲い掛かったときにこの言葉を使うように思います。
でも、たとえば「自分の何かを犠牲にして望んだものを得た」とき、その、犠牲にしたはずのものが、まだ自分のものだったとしたら?
それは何か、天を欺いたわけではないのに、何となく、心に引け目を残しませんか?
…………
私ごとですが、羽生くんが2017年のNHK杯を怪我で棄権してから平昌オリンピックまでの間に。
「私はこの先、羽生くんの試合を現地観戦できなくてもいいから、間に合うように治りますように」
と、思ったことがあります。
はっきりと願掛けしたわけではなかったし、そもそも当時残り試合はオリンピックと、その後の世界選手権だけだと予想してましたから。
我が家の事情で行けるはずもない試合を行かないからといって、「○○断ち」ともいえるものではありませんよね。
さらに、当時ロッテさんの羽生くんキャンペーンをやっていて、羽生結弦選手監修Gショックが抽選で当たるというもので、それに一口だけ応募したんですよね。
私はガムが苦手で、それでも買ったのは羽生くんのキャンペーンだからですという、企業さんに向けてのアピールが目的でした。
(その後、羽生くんボトルを買うことが増え、すっかりガムを噛むのに慣れました)
ついでにここでも願掛けしたんです。
「私の分のくじ運は羽生くんに差し上げます。どうか、良い滑走順が(平昌オリンピックで)当たりますように」
そうしたら、当たっちゃったんですよ、Gショックが。
え?ええ??えええ???
なんかもう、あのときは、天に「その程度(の犠牲)で望むな」と言われた気がしました。
でも、よく考えてみたら、ファンが何を望んで何を犠牲にしようと、そもそも関係ないんですよね?
それはどんな「○○断ち」で何を望もうとも同じことで、どれだけ我慢しようが途中で挫折しようが、結果に影響を与えることはほとんどないわけです。
なのに、その○○断ちを途中で諦めたり、あるいは最初から簡単なことしかせずに願掛けすると、特にそれが叶ったときにはなんだか罪悪感をおぼえたりするわけです。
…………
羽生くんが全てを懸けた試合、それまでの人生とそれからの人生を懸けて臨んだ試合で、金メダルを勝ち取ってから3年あまり。
あと、望むものは4Aの成功だけだというのが、心からのものだとしても。
その心理のどこかには、「全てを懸けて得たもの」があるから、それ以上のものを望むことを自身に禁じている部分があるのかもしれないと。
そんなふうに感じました。
もっともっと貪欲に望んでもいいのにと思います。
北京オリンピックでも金メダルを取りたい、世界選手権でも優勝したい、世界記録も出したい、全ての試合で正当に採点されたい…
そう望んでも、構わないのにと思います。
なのにもう、4A成功しか望んでないのだとしたら。
全てを懸けた金メダルの価値があまりにも大きかったので、次の機会を他のスケーターから奪うことへの罪悪感がどこかにあるのかも。
…………
選手たちが頂点を目指すのは当たり前のことです。
競技をやるからには、勝利への熱望があるほうがいい。
なのにフィギュアスケートという特殊な競技では、スターを作るために金メダルを特定の選手に取らせたいという動きが、あからさまに見えてしまうので。
その流れに逆らってまで掴み取りに行くこと自体への罪悪感を、選手が感じてしまうのだとしたら。
そんな競技に未来はあるのでしょうか。
…………
ちょっと補足します。
こういう罪悪感などを感じるのは、まともな方たちだけです。
世の中には、自分のしでかしたことも他人のせいにする輩もいます。
政治のせい、社会のせい、時代のせい…
そういう、責任転嫁することばかり考えている人もいるでしょう。
成功すれば自分の手柄、失敗すれば他人のせい。
そういう生き方をしている人に災難が降りかかったときに、天罰という言葉を使いたくなるのかも。
できれば自分が災難に遭ったときに、天罰と言われるほどに他人を傷つけて生きるのだけは、しないでおきたいものです。
実行できているかは、甚だ心許ないのですが。
…………
羽生くんが実際のところ4A成功以外の何かを望んでいるのかどうか、わかりませんけど。
正しい努力で手に入れられるはずのものを望むことに罪悪感をおぼえさせるような、そんな競技であって欲しくはありませんね。
読んでくださってありがとうございました。