羽生くんのスケートは美しいなぁ…

いきなり、失礼しました。

あら、でも、私のブログを読みにこられる方は、たいてい同じことを思っているでしょうし。

まあ、いいことにしておいてください。

それにしても。

迷走ジャッジさんたちは、この美しさの価値を理解しているのでしょうか?

なんだか、「独創的」とか「予想外の」とかで、羽生くんよりネイサン選手(のコレオシークエンス)を高く評価しているとか…

(すみません、相変わらずどこでそれを読んだんだったか不明ですが)

要は、斬新なものを見たい、それを見せてくれるスケートが好き、ということで?

まあ、それでは、目新しいものに心躍らせる素人の感想とあまり変わらないというか…

本当ならそれは、どのくらい難しいかとか、それをどのくらい美しくやったかとか、その音楽の表現としてどうだったかとか、そのあたりで評価されるべきだと思うのですが。

斬新なものに高い評価を与えるのは構わないけれど、それは、本来の「難しいものを美しく、その音楽にふさわしい表現として」なされているものにも、きちんと高い評価を与えていればのことなのでは?

でないと、(羽生くんのような確固たる信念のもとにやっているスケーター以外は)みなさん物珍しいことをして済ませるほうにいってしまいますよね。

それで、いざ、目新しさに飽きてきて、そろそろ本格的な美しいものが見たいと思っても、(羽生くんがいればともかく)誰もそれができるスケーターが現役選手にいなかった…なんてことになったりして。

ま、そういうのを世の中では自業自得と言うのかもしれませんが。

(本来の意味は、良いことをしたら良いことがあるということらしいのですけど)

そういう方向性で、本当に構わないのですか?

なんか、あまりにも、ジャッジ側がスケーターに要求することは、厚かましいように感じるのです。

しかも、それでいて、その「厚かましいくらい高い要求」に応えているスケーターをきちんと評価していないような…

挙げ句の果てに、目新しいものが見たい…と。
???

いやー、先日夫とも話してましたが、「アマデウス」みたいに芸術家を取り扱う映画などに出てくる、その時代の素晴らしい芸術家をきちんと評価できない評論家の役。

そのままかも。

後世に、名前も出した点数も、そのスケート映像と共に残るというのに…

よろしいのでしょうか、ねえ。

ジャッジよりも沼の住人のほうが、その芸術の素晴らしさをよく知ってますことよ、おーほほほ…

読んでくださった方がいらっしゃるなら。

ありがとうございました。