人間、高い目標を持って努力するのはとても尊いことだと思います。
しかし、たまに「目標」であるべきものが「目的」になっている人がいませんか?
私は息子たちを育てるときに、「○○さえしていればいい」という言葉は使わないように気をつけてました。
この○○に入る言葉が勉強であれ、スポーツであれ、芸術であれ、とにかく「一つの道に邁進すること」が、他のことを疎かにしながらでなくては、できないものであって欲しくなかったのです。
人間、生きていくために必要なことは山のようにありますよね。
細かいことを言うなら、ゴミは分別をして決まった曜日に出さないといけませんし、生活必需品は無くなる前に買い足さないと困ります。
そういった、「面倒くさいし、大したスキルがなくてもできるけど、自身や家族のために心配りするべきこと」が、家事労働のかなりの部分を占めていますよね。
それも含めて、「○○さえしていればいい」だと、設定された目標に向かって進むことには熱心でも、他のことはどうでもいいものと認識されてしまうのではないでしょうか。
むしろ、自分は○○をしなくてはならないから、そんな、誰でもできるようなことに時間をとられるのはもったいないことだと思ってしまいそうですね。
難関大学に合格することを目指して頑張って勉強して、いざ入学したら他の(偏差値がそれより低い)大学の生徒を見下して、自分のほうが偉い人間だと思いこむ人もいます。
有名大学の学生が(数人で)他大学の女子学生に性暴力をふるったという事件も、背景にあるのはその「目標に達した自分は何をしてもいい」という傲慢な思い上がりなのではありませんか?
スポーツでも、その競技では自国の第一人者になった時点でもう、何をしても許されるような勘違いをする人がいます。
賭博や麻薬などで問題になった競技の選手たちは、そういった間違った認識のままで成長したからそうなったように思います。
それらは全て、目標であるべきものを目的と思ったから生じた齟齬なのではありませんか?
それが目的であるなら、達成したあとは「こういう素晴らしいことができた自分はもう、つらい努力から解放されて左うちわで暮らせる」ような気になってもおかしくないでしょう。
でも、それを正しく目標だと思っていたのなら、達成してもまた次の目標を自分で設置していけます。
また、○○以外のこともしっかりと学んだりスキルを身につけていた人なら、自分が到達した目標だけが賞賛されることではないと理解していることでしょう。
羽生くんがソチオリンピックで金メダルを取った後に、インタビューで東日本大震災について「何もできてない」というようなことを言ってました。
平昌オリンピックで金メダルを取って、被災地の人たちに喜んでもらえるとも。
つまり、羽生くんにとっては金メダルは目標ではあっても目的は「被災地の人たちに喜んでもらうこと」だったわけです。
崇高な目的ですね。
自分一人だけの楽しみではなく、大勢の人たちの幸せを願うなんて。
メダルを取るということが目的だったら、それだけで舞い上がって、ちゃらんぽらんな人生を送るようになることもありえるわけです。
そういう人もいますよね。
でも、大勢の人を幸せにする人だからこそ、スーパースターなのです。
メダルを取ることが目的の人では、そうはなれないでしょう。
読んでくださった方がいらっしゃるなら。
ありがとうこざいました。