「あってはならないことがまた起こってしまいました…」
そのような前置きで始まるニュースを、私たちは幾度となく見てきたと思います。
そのほとんどが、「あってはならないこと」と言いながら、以前にも似たようなことがあり、またこれ以降もあるだろうという内容です。
子どもが虐待されているのを放置した、イジメにあっているのを見過ごした…
そして多くの場合、それがニュースで取り上げられるのは取り返しのつかない事態になってからなのです。
そこで、一度その言葉が持つイメージに惑わされていないか、考えてみませんか?
「あってはならないこと」という言葉には、本来ゼロであるべきという意味が含まれていませんか?そして、その言葉で「いつもはゼロだけど、たまたま一回こういうことが起こってしまったから、報道しなければならない。これが解決したら、またゼロに戻るだろう」という、無意識のうちの楽観的観測をTVが視聴者に与えていませんか?
もちろん、ゼロであるならそれに越したことはありません。しかし、日本の中だけでも現在「虐待されている子ども」、「イジメを受けている子ども」はゼロだと思いますか?そこまで甘い予測をしている人はいないでしょう。
そしてその中で、明日それで命を落とす子どもがいないと言えますか?
人間は、失敗するもの、間違うもの、ときには過ちをおかすものです。
性善説とか、人を信じるとか、そういう美名のもとに隠されている「厄介なことに関わりたくない」という気持ちを見過ごしてはいないでしょうか。
子どもが命を守ってもらえない事態を「あってはならないこと」と言いながら繰り返すよりは、「あって欲しくはないが、ゼロではないと思うから皆で協力してゼロにしていくべきこと」と意識を変えるほうが良いと思います。
虐待もイジメもゼロにはならないでしょう。
しかし、早い段階でそれに気づいて対処することで子どもを守ることは、不可能ではないと思いたいのです。
虐待もイジメも「あるだろうから、見つけて対処していくべきもの」という意識を共有することで、失われてしまう命が減るのなら、人を疑うことをためらわないくらいの覚悟を大人は持つべきなのではありませんか?
また、イジメについては、学校が「我が校にはイジメはない」と言ったら、それは信じてはいけないと思います。
見過ごしているか、隠蔽しているかのどちらかです。
むしろ、「我が校ではイジメは先月○件わかって、その内解決したのが半分、まだ取り組み中が半分あります」と言ったら、そのほうが余程真摯に子どもたちに向き合っている学校だと思います。
もし、何らかの問題を抱えていそうな子どもだと感じたら、「大丈夫?」ではなくて「今一番困っていることは何?」と尋ねてみたいと思います。
返ってきた答えが何であっても、親身になって聞いてくれる大人がいるということをその子がわかってくれれば。それが解決への第一歩になるかもしれませんから。
読んでくださった方がいらっしゃるなら。
ありがとうこざいました。