またまた、では何故共有する神の存在が必要だったのでしょうか。


アニミズムが示すような多神教的な神の存在であれ、キリスト教、ユダヤ教、

イスラム教などがその存在を信ずる一神教の神であったとしても、人間に対する

その存在意義は何であったのでしょう?


文明社会の発達とともにそのコミュニティに属する人民は互いに助け合い、

ひとつの体制の中で共生していくという安心感と同時に、争いの中で統治者が

代わることによる体制の大きな変化に不安をも感じていたと推測されます。


人民は統治者である王または為政者に忠誠を誓い、忠義を尽くしても、その

交代劇に彼らの運命は常に翻弄されていったのです。


そこで統治下にある人々は、人が存在する限り変わることなく、常に心の中で信

じられるもの、彼らが畏怖、畏敬の念を心の中に持って暮らしていけるもの、

体制の変化、世代の交代に影響されない、統治者を超える絶対の存在を求め

たのです。


つまり、


時の始まりと共に存在し、永遠の未来に向けて存在し続けるもの。


すべての人が共通の存在として認識し続けられるもの。


畏怖、畏敬の念を持ち続けられる対象。


その存在こそが 「心の中で共有する神」 なのです。










































神について、人類学的にその存在を検証してみたいと思います。

あらゆる可能性を考慮したうえで神の存在および実体を検証したいと思いますので、

ありえないと思われるような仮説を取り入れながら、書いていきます。


さて、人類が、猿人、原人~そしてホモサピエンスと進化する中で、もし単独行動を

る生活をし、群れとしての行動形態を持たず、パートナーを見つけ、子供が生ま

れ、その子供が巣立つと、あとは離れ離れになるいわゆるトラなどと同じ行動をして

いたしたら、人類は神という存在に気づいたでしょうか?

答えは 肯定と否定のどちらもある可能性は否めませんが、少なくとも神の存在は

類には必要なかったのではないでしょうか。


もちろんそのような人類には、文化、言語、経済、行政などを包括した文明というもの

生まれなかったでしょう。

文明がなければ 今日の人間社会はありえません。


では、想像してみましょう。 

人類が文明社会を形成せず、トラと同じ生活をし、野山を駆け回っている状態を・・・

意思疎通を図るための言語を持たず、互いのものを交換する経済活動もせず、芸術

ない世界を・・・


そこに神は存在しえません。


つまり、ここで言う神の存在とは人間の心の中に共有する存在としての神のことです。


では、心に共有する神とは何でしょうか? 


さて、現実には人類はくしくも文明社会を手に入れました。

群れをつくり、村を作り、大規模集権体制までをも作り上げてきました。


これらはいずれエジプト、メソポタミア、インダス、黄河という文明社会を生み出し、

そこにはあらゆる文化が花咲き、言語が発達し、経済、行政、という概念をも

生み出して行きました。

これらの集権体制の多くは君主による統治という形がほとんどでした。

そして、これらの権力のほとんどが武力を使った争いによって勝ち得た者に集中

していったのです。


これらの統治は君主の死によってその体制が変えられ、社会の平穏な体制維持に

影響を与えていったのです。


ひとつの文明社会の中では、そこに住む人民が共通する概念であったり、共通

する人生観であったり世界観を共有する必要があるのです。

また、共有できるからこそコミュニティの一員として生活が出来るのです。

そのコミュニティの中に生まれた共通認識としての文化の一つに宗教観がありま

した。

これが心に共有する神の存在です。


またまた、では何故共有する神の存在が必要だったのでしょうか。


アニミズムが示すような多神教的な神の存在であれ、キリスト教、ユダヤ教、

イスラム教などがその存在を信ずる一神教の神であったとしても、人間に対する

その存在意義は何であったのでしょう?