1598年トルコ東部エルズルム拘置所における
死刑囚と看守の会話
ピルスルタンアブダルは獄中にあって落胆の思いを隠すことができなかった。すでに一週間食べ物も水も与えられていなかった。だが彼の戦闘意欲をなえさせたのはそのことではなかった。彼を絞首刑にしようとしているのはかつてかれがサズの愛弟子として目をかけてやった男である。だがそのことでもなかった。彼が民衆の希望の象徴と信じ、そのために戦ってきた同士であるはずのイランの王シャーイスマイルの裏切りによってであった。
「俺は甘かった。イランの王はイエメンの砂漠で俺に語った。弱肉強食の野蛮な欲望に歯止めをかけ、人間のわずかな善意を束ねて、慈愛と正義による平等な社会を作ろう。権力者がイスラムをかくれみのにほしいままの略奪を働き、イスラム法の権威ある有識者がシャリーアを自分たちの既得権益を守るためのみに使用する、こんな不正義への怒りと涙に報いるために、共にアナドル解放のために立ち上がろう。あの熱い弁舌はどこへいってしまったのか」
16世紀に何度となく繰り返されたオスマントルコとサファビー朝ペルシアの戦争。ピルにとってそれはアナドルをオスマン支配から解放するためのものだったが、シャーはカフカス領有の見かえりにデリスタンをオスマントルコに売り渡したのだった。実はシャーは最初からアナトル奪取のためピルスルタンとデリスタン遊牧民の宗教的情熱を利用しただけだった。そして戦勝のあかつきにはわずかな褒美を与えた上、サファビー朝のケルマンシャー州と合併するつもりだった。しかしピルの考えがシャーへの服属でなくデリスタン独立であることを知り、オスマンとの取引材料にすることにしたのだ。
「支配者からの自由と解放。なんというきこえのよい言葉か。しかし歴史上解放のための戦いが、まともな人間たちによって勝ち取られたためしはない。戦いはつねによこしまな利口者によってその成果をもぎとられ、また新たな監獄が作られるだけだ。」
ピルがはじめて反オスマンの戦いに参加したのは1514年のことである。誕生したばかりのサファビー朝の革命の輸出を怖れたセリム一世は、タブリーズ進撃に際して後方の守りを固めると称してシーア派の住民を片っ端から殺戮した。ピルの恋人のメリアムもそのときに死んだ。
「そして俺は復讐のためにシーア派に入門した。生死をかけた戦いに望まねばならないとき、男は必ず大義を必要とする。無意味に死ぬことは耐えがたいのだ。大義のない戦士は単なる殺人嗜好者であり、強姦魔以外にはありえない。だが、実は大義はシーア派信仰でなくともよかった。21世紀日本にいきる読者諸君は活字と言葉の中毒者だから、俺とシーア派信仰をイコールでつなぎ、そこにターバンを巻いて口ひげを生やした、諸君から見て見るからにおどろおどろしい異形のアラブ人のイメージをあてはめる。そいつはほとんど瞬時に行われる情報操作だ。しかもまったく無意識にね」
「ピル先生よ、誰に向かって話してるんだ。処刑は明日の早朝だ。今夜はぐっすり寝たらどうだ。革命の戦士らしく身なりを整える時間も必要じゃないか」
看守がとがめて言った。
「ご親切様。俺は今21世紀の日本人に語りかけているのさ。まったくあいつらときたら、書物にしろテレヴィジョンにしろ作り物だと言う前提がすっぽり抜け落ちて、頭から信じ込んじまうイノセントな連中だからなあ」
「よくわからんが、その日本人というのは黒海のラズ人の親戚かね。ラズ人と同席するのはごめんだね。なぜってあいつらの言葉が俺にはわからないからだよ」
「なんだ君はまるで日本人みたいな考えの持ち主だなあ看守君。さて日本人の諸君、例えば君はオスマントルコといいサファヴィー朝というとき、当然ながら君たちの言語を使うわけだ。だが、16世紀のアナドルではそれらは当然違う言葉で呼ばれていた。つまり君らが想像もできない言葉で名づけられていたその現場の空気感を、君はまったく感じることができない。わかりやすい例をあげよう。オスマントルコという日本語で君が呼ぶその国を、当時のアナドルの住民はローマと呼んでいたんだ。それから、西洋文明発祥の地ギリシャと君の口からよどみなくすらすらと口をついて出る安っぽい広告のキャッチフレーズについてだが、少なくとも18世紀以前そんなことを口走る人は間違いなく精神病院送りになっていたろう。なぜなら多神教時代に栄えたギリシャの学問はキリスト教徒となったギリシャ人によって禁じられ、ゾロアスター教のペルシアとそれを滅ぼしたイスラームのアラブ人によってそっくり受け継がれ、発展したのだから。つまり学問の発達を尊重したのはキリスト教社会ではなく、偏狭な原理主義と見られているイスラームのほうだった。当然21世紀のギリシャ国はビザンチンと後世呼ばれるようになったローマ帝国の子孫なので、西洋文明ではなく西洋から決別した東洋キリスト世界の後継者というべきだ。では西洋文明の子孫とは誰か、われわれさ」」
「しかしピル先生、未来のギリシャ人たちはよく言ってますよ。オスマンの圧制に500年間も苦しめられた恨みは今でも忘れないって。セルビアやブルガリアでもそうですよ。」
「そうだ、問題はそれだよ。オスマン帝国500年の圧制、といま君がよどみなく語るとき、君の頭は実は何も考えていない。広告のキャッチフレーズさ。だれかがある特定の効果を狙って作った広告。言うまでもなくそれは人を殺し合いに導くための言葉だ」
「するてえとなんですかい、オスマン帝国は悪いこともしたがいいこともたくさんしたではないか、そういえばいいんですかい」
「違う違う。いいかね、過去の総体的評価などだれもできやしない。ある言葉と言葉を対立させる、その作為に気づくべきだ。オスマン対ギリシャ、トルコ対ロシア、アジア対ヨーロッパ、なんでもいいがこうした対立軸の設定のやりかたそのものの暴力性を疑えと言ってるんだ。つまり、対立しているかに見えるオスマンとギリシャがおなじだったらどうする?アジアとヨーロッパが同じものだったら?いやそもそもイスラムとキリスト教が地下水脈でつながった兄弟だとしたら」
「先生、何を言ってるんですかい。死刑の恐怖できがふれちまったとしかいいようがない。イスラムとキリスト教が同じ、オスマンとギリシャが同じ、アジアとヨーロッパが同じものだなんて、いくらなんでも無茶だ」
「そうかね、そもそもギリシャなんて言葉は今日誰も使ってない。それは未来に作られた造語だ。ササン朝がユスキュダルを占領し、コンスタンチノープルのローマ帝国を攻めたとき、どちらもアジア対ヨーロッパの戦いなどと考えもしなかった。どちらの側にも異教徒の傭兵がいたし、どちらも同じようなものだった。これが重要だ。イスラム教対キリスト教。この対立軸も問題だ。あたりまえのことだが宗教は人間の属性のごく一部なんだ。たとえイスラム教のように聖も俗もなく生活すべてを律する、だとか、いわれていても、主観的にどう思っていようと人間の行動のすべての動機が宗教だなんてことは絶対にありえないのだ。聖戦の背後には別のもくろみがある。そもそもがイスラムと戦争をリンクするイメージ操作の虚構を疑わなくてはね。例えばキリスト教の特集と称してインディオ集団虐殺の再現フィルムや、KKKの夜の集会や、黒人の子どもを寝かせて足の裏を暖めている強欲なくわえタバコの白人農場主の映像を、休むまもなく流しつづけるテレビ番組を想像してみたまえ。なんと偏った編集だ、これはひどすぎる、キリスト教のごく一部しか表していないあまりに偏った宣伝だ。誰でもそう思うだろう。しかしイスラムという記号に対しては同じことが毎日にように行われているのだ。そしてそれがあまりにもあたりまえのことなので誰も不思議に思わない」
「ピルスルタンアブダルは16世紀のアレウィー派神秘主義詩人で、デリスタンの西のはずれのシワスで生まれ、死刑に処せられた。実は史実として明らかなのはそれだけなのだ。しかし彼の残した膨大な詩はいまもデリスタン人の心を捉えて話さない。
「結局のところオスマンとサファヴィの戦争は宮廷の面子をかけた王と王のたたかいだった。宗教は領土獲得のためのかくれみの、民衆をすすんで戦場に行かせるための大義名分に過ぎなかった。シーア派もスンニー派もイスラム教徒であることには何の違いもない。たまたまスンニー派が政治権力と結託したために私服を肥しためにいけにえの異端を必要とした。異端派は経済的に貧しいまま捨て置かれ、その怨念からますます異端としての自覚を強めて行く。正統派は必ず異端を必要とするのだ。彼らは自分の地位が危なくなったとき民衆を異端粛清に動員することで効果的なガス抜きを行う。ピルスルタンアブダルは地中に埋められたままスンニー派の村人たちから石を浴び半死半生になるまで棒で殴られたあと、引きずり出されて縛り首になった。この記憶が今日に至るまでシーア派の復讐心をさらにかきたてる。シーア派が支配した地域では逆のことが起こったろう。
16世紀に世界のあちこちでほぼ同時に起こった反乱。
東部アナドルデリスタン州のシーア派をかかげたオスマン帝国からの独立戦争
トロス山脈の義賊集団アイフェイのイズミール州庁舎占領と二百日間の支配
南フランスラングドック州アレビ市のオック語回復運動
グラナダ大司教によるサンブラ禁止令に端を発するアルバイシンでのアラブ人キリスト教徒モリスコの反乱
ピルスルタンが73人の仲間と共にオスマン打倒の戦いに立ち上がったとき、彼は世界各地の反乱軍と連携していた。デリスタンのアーシュク、アイフェイのゼイベキウス、南仏のトルヴァドール、そしてアラビックスペインの伝統を守る改宗モーロ人たち。物乞いに身をやつした吟遊詩人たちが諸国を行き来し、革命の進捗状況を報告し会った。記録文書のたぐいはなく、すべては音楽と詩によって記憶に刻まれた。このため、彼にまつわるすべての物語は、伝承者のおぼろげな言い伝えによるほかはないのだがね」
「俺たちの英雄ピルスルタンアブダルの伝説は、早くからイラン領となりデリスタンと切り離されたアゼルバイジャンには、不思議にもまったく伝わっていない。この街で彼を知る人間などまずひとりもいない。ピルを捨て駒にしたサファビー朝の為政者たちによって封じ込められたとしか思えない。オスマントルコとの戦争に敗れてからはサファビー朝もオスマンを見習って歩兵中心の近代的軍隊に切り替えたので、遊牧民の反乱を鼓舞した男の歌など、かえって有害なものになったのだろう」
「ピルスルタンによるデリスタン独立戦争はついえたが、その後もイスタンブル政府がデリスタンの自治を許したことはひとつの美しい奇跡だ。その理由は二つある。五万人の吟遊詩人部隊が、オスマントルコ各地で剣やペストより恐ろしい毒歌を広める可能性を恐れたことがひとつ。かつて人々は言霊を信じ、死者の霊に通ずる吟遊詩人がひとたび不吉な歌を広めれば、災いは必ず実現すると考えられていたのさ。もうひとつはかつての同志ベクターシュ教団の布教活動によって皇帝の親衛隊イエニチェリの中に入信者が続出し、アレウィー派住民に銃を向けることを拒否するようになったこと。ベクターシュ教団の布教活動があと1年少し早ければ、デリスタン独立運動が成功した可能性もある。
「僕の話はこれでおわる。オスマン帝国末期から現代に至るデリスタン現代史は、トルコの東の玄関口ドウバヤジットの観光ガイドアイテキン・アタシュに聞いてくれ。バスターミナル横の旅行代理店『マンカファツーリズム』へ行けば彼の居場所がわかるだろう」