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「お客さん、終点だよ」
運転手に起こされ、気がつくとバスはタブリーズに着いていた。地図もなければ言葉もわからない。この街はイラン領とはいえかつてのアゼルバイジャン自治共和国の首都で、昔も今も住民のほとんどはトルコ系のアゼリー人だ。しかし俺の目にはトルコの街とはずいぶん雰囲気が違うように見える。それに人々の話している言葉は俺のなじんだトルコ語よりはおだやかで優美な感じがするのでペルシア語と聞き間違えたほどだ。。ゴッズホテルはイラン各地へのバスの発着所の近くの、チャイハネの隣にあった。イスラム圏なのにゴッズ、つまり神々のホテルとは妙な気がする。
「よお日本人、サズ持ってるね。弾けるのかい。アーシュクベイセルやピルスルタンアブダルの歌は歌えるかい。ハラキリやエンコーの唄でもいいよ」
ゴッズホテルの支配人ジェンギス・エルデムは陽気な男だった。
私は病の人 心が痛む
このメッセージを 鶴よ早く彼女に届けて送れ
異国の地のみじめに見捨てられた男に 鶴よ うたっておくれ
「吟遊詩人が東部アナドルに登場したのは、チンゲーネつまりジプシーがレコンキスタでスペインを追われたムスリムの後を埋めるようにしてアンダルシアに入ったのと同じ15世紀のことだ。彼らの宗教儀式はシャーマニズムそのものに見えたので、音楽を禁ずるイスラーム正統派の住民たちからはデリ、つまり気の狂った者とよばれ、彼らの住む地域はデリスタン、狂人の土地とよばれるようになった。もちろんそれは蔑称だが、彼ら自身その名に誇りを持っていた。またアナドル移民後のかれらの信仰は次第にアリーへの聖者崇拝色を強め、シーア派でなくアレウィー派(アリー崇拝者)と呼ばれるようになったが、これは、異なった名称によって互いの異質性を際立たせることで、イランのシーア派と団結するのを防ぐためのスルタンの策略でもあった。
当時東部アナドルにはトルコ系遊牧民族の小さな国家が乱立し、空白の土地と呼ばれたデリスタンは、その緩衝地帯となっていた。そこにはトルクメン、アルメニア、クルドを中心に多数の民族が住んでいたが、国家らしきものはなく、優れた百人の吟遊詩人を中心とする世界の吟遊詩人のセンターであった。そこには偶像崇拝者を含めあらゆる宗教の博物館であったが、中東と言えば宗教戦争をイメージしてしまうあなたがたにはデリスタンの日常は奇跡としか思えないかもしれない。イスラム教徒がアルメニア人の結婚式に招かれ、スンニー派とシーア派の村が合同でラクダの綱引き大会を開いて楽しみ、トルクメンとクルドはいくさのけりがつかないときは即興詩の大会を開いて勝敗を決めた。人々の間を共通言語として媒介するサズが、共通した文化の基盤であり、寛容の精神の母体だった。
この時代、サズの楽器構造にも大きな変化があった。もはや蛇皮を張ることが不可能になったため、やむなく木をくりぬいたり、寄木細工で作られた。そのボディーの形はとぐろを巻いた蛇をデフォルメしたもので、木胴の裏側にひそかに蛇神の描かれたが、当局に見つかったときの言い逃れのため、コーランの一節を記した装飾スタイルのアラビア文字にもみえる代物だった。
デリスタン地方はクルディスタンとメソポタミアの間の、アフガニスタンに似た峻厳な山と岩だらけの砂漠の一帯で、人々の多くは遊牧で暮らすが、唯一のオアシス都市デルシムはかつてのコマゲネ王国の首都で、キリスト教時代から多くの修行僧の道場として栄えた所だ。ここには異端派キリスト教徒やスペインから追放された逃れたユダヤ人、カリフから死刑宣告を受けたスーフィーらが一種の隠れ家としていた。そのためこの街にはユダヤ教やギリシャ哲学、神秘主義思想、アラブ音楽、仏教などさまざまな文化が融合し、無国籍の自由世界を形成していた。忘れてならないのはアナドルの土着信仰であるメドゥーサ崇拝者たちで、オスマンの圧制を逃れた彼らはデルシムの自由の中で信仰を保つことができた。他人の悪意の視線をはねかえすお守りとして、トルコ全土のみやげ物やで売られているあの青い眼のガラス玉が、メドゥーサ崇拝者のお守りだとは、たぶん君も知らないだろう。この自由にかげりがさしたのが16世紀。イランにサファビー朝が成立し、シーア派を国教にしたときから始まる。東ヨーロッパを手中に収めたオスマントルコ帝国は、それまで宗教的にはいたって寛容だったのだが、バルカンのキリスト教文化にのっとられてしまう焦りを感じたのか、突然イスラムのスンニー派の盟主の看板を掲げ始める。標的となったのがサファビー朝さ。遊牧民の軍事力によって成立したオスマントルコは遊牧民をすでに必要としなくなっていた。戦争の主役はバルカンのキリスト教徒の子どもをイスラムに改宗させ、宮廷で育て上げたスルタン直属の歩兵軍団イエニチェリである。遊牧民はもはや国家の支え手ではなく、税金を搾り取る対象に過ぎなくなった。支配者たちはより確実な徴税の方法をめぐって悪知恵をしぼり、東部アナドルに土地所有制度を導入した。つまりもともと部族の共有地であった土地を、部族の指導者に安い金で買わせたのだ。目的は金ではなかった。部族の指導者を土地の所有者にし、部族民を小作農にして土地に縛り付けるのがねらいだった。その効果はすぐに現れた。族長は自分の土地から収益を上げるのに躍起になり、一方自由で頑固なやり方を通してきた遊牧民たちは、今までの自分の土地で奴隷扱いされることに我慢がでならず、指導者に武力で反抗し始める。土地所有の味をしめた族長はもはや部族のリーダーとして尊敬されることはなく、オスマン帝国の忠実な下僕になりさがり、イスタンブールに逃亡して不在地主と化した。部族の紐帯はまったく失われて伝統的な遊牧民社会はばらばらになり、食い詰めた小作人は放浪者となってアナドルの各地で山賊集団を形成するに至る。
そんな時代に、アゼルバイジャンのタブリーズにシーア派政権が誕生する。当時は両国の国境はあいまいで、アナドルとアセルバイジャンの間を人々は自由に行き来していた。カフカスからやってきたデリスタン人にとってはアゼルバイジャンこそ懐かしい故国であり、オスマンよりもむしろサファビー朝のシャーイスマイルを自分たちの盟主として仰ぐようになる。クルドの名高い吟遊詩人であったシャーイスマイルは、肥沃なアナドルをオスマンから奪うために住民感情を利用しようと考え、、多くの美しい詩歌を伝令のアーシュクに託してデリスタンに伝えた。彼にはとっておきの秘策があった。正式な典礼としての蛇信仰の奨励。蛇捕獲禁止令の撤廃。この二つである。