貧困論の基本的概説書。著者の研究実績のほか、世界各国の貧困論の研究論文を多数引用して記述を進めている。まず、貧困についての概念、定義、測定基準を網羅的に論ずる。つづいて、「貧困者」と「非貧困者」との関係、つまり、貧困を定義する側の非貧困者が貧困者に対して行う「他者化(支配的集団が自分たちより弱い集団に対し、自らのアイデンティティは善良ではあるが、そうでないものとして負の属性をあたえるもの)」について論ずる。更に、貧困状態がいかに人権を侵害し、かれらの社会参画を抑圧しているかを示して、すべての人々に尊厳ある生活が提供されるため、物質面の再分配のみでなく、同じ市民としての承認と尊重・敬意が払われる社会正義の在り方を提言していく。
以下私見
『貧困の研究が究極的に正当化されるのは、それが個人や社会の行動や態度に影響を与える場合のみとなる。このことは常に念頭に置かねばならない。(中略)さもなければ、それは意味論と統計だけの低俗な言い争いに過ぎず、寄生虫的で、覗き趣味的で、まったくの非建設的なものとなる。』というデイヴィッド・ピアショの言葉を、著者は警鐘としながら論述したという。
なるほど、重み有る言葉だ。私の場合、実務に就くまで、多少の知識はあったものの、なかなかかかる問題についての実感は乏しかった。やはり、書籍の中での数字やら、グラフを見るのと、現実に同じ社会を生きている貧困当事者と対峙するのとは違った。そんななか、バイト始めて10年以上経過したころ、本書に巡り合い頭の整理ができたのは良かった。
さて、近年教育格差・体験格差やら、健康格差・医療格差などいろいろな〇
格差が言われているが、いずれにせよ〇
格差の前に(貧困による)という前提を付した方が通りがよいのではないかと思った。同様に、「親ガチャ・ムリゲー」なんて概念も。もちろん、愚行権の行使結果として生じた格差は別としてではあるが。
そもそも論として、なぜ、日本では貧困ではなく、〇
格差等の別の言葉に置き換えてかかる議論するのか。問題の本丸である貧困は、相対的貧困率としてみるなら、1/6の人々がその対象となっているにもかかわらず。美辞麗句と、言葉遊びが好きな国民性として、物事の本質から目を背けていると、将来的に禍根を残すようになると思うのだが。
とりあえず、〇
格差の本読むんだったら、これ読んでからのほうがいいかも。
日本は2008年に全体として人口減少社会に転じたが、1960年代以前から、農村の人口は減少に転じている。各種農村振興の政策を打ったが効果なく、さらなる人口減少が進み、限界集落という概念が登場するようになった。そこで政府は地方創生をかかげ東京への人口集中による地方の人口減少を是正し、地方定住を促進させ地域の活性化を目指すことを打ち出した。
しかしながら、限界集落にあっても地域の活性化や移住に対して消極的な人、また、地域が消滅しても仕方ないと思う人等、すべての集落の人が地域活性化・持続可能性といった方向を志向しているわけではないというのが現実である。これに対し、地域を活性化させることが普遍的正義であると云う観念が、一方には存在する。そしてこの地方活性化は絶対必要であるという考え方は都会、地方を含め大半の人々の思考・行動を規律しており、このような思考形態を「地域活性化フレーム」と定義している。また、この地域活性化フレームに反する行為や態度を示すことは、当該地域内でのその人に対する排除や不可視化にもつながり、地域の緩やかな自然消滅を望むということは許されない雰囲気を作り出すのだと。
農村における生物との関係、建物との関係、来訪者との関係にかかる事例を提示して画一的かつ標準化された「地域活性化フレーム」によってなされる事業等に地域の人々が翻弄され、争い、とまどい悩む姿を紹介していく。
以下私見
私も移住者であるが、人口減少・高齢化が異様なまでに進展した中山間に来たわけでもないので、何の不自由もなく暮らせている。なによりも、生活に不便もなく、人間関係、仕事にも恵まれているというのは有り難い。移住に当たっては、地域社会の需要と移住者の需要がかみ合い、夫々にその成果が供給されることが前提となる必要がある。これら需要は双方において個別具体的に異なるわけだから、それを「地域活性化フレーム」として一般化することはナンセンスでしかない。
つまりこの辺りが、個別具体性をもって確立されてないと、一極集中是正!地方移住促進!とか声高に叫んでみたところで現実味がないのだ。
さて、6,7年前、コラムか、論文で「地方創生は必ず失敗する」書いたが、案の定ほとんど効果もなく、東京一極集中を是正できないまま失敗に終わっている。失敗する理由は当初にも云ったが、「とりあえず、やっておこう」とやっている感を出すことが目的となっていて、EBPMを全く無視しているからである。そして、効果のない別の理由としては、そもそもかかる施策にノウハウのない地方は、ハイエナコンサルの格好の食い物にされるだけというのもある。
なお、コロナでバカ騒ぎしていたおかげで、一時東京からその隣接県である埼玉、千葉、神奈川に東京から人口が若干流れたものの、コロナ開けしてからは元通りの一極集中に転じている。
現在の地方創生は、地方の人口減少を抑えることは不可能と諦めたのか、そこで持ち出したのが「関係人口」なんて云う新たな概念である。よくわからないが、その地域への関わり、想いの強弱で交流人口<関係人口<定住人口となるそうだ。
なお、これに表面的親和性が高い政策が一つある。すなわち、元来の理念を失い、市場・政府を介さないで行われる下賤なバラマキである「ふるさと納税」である。とにかく、地方に対し、市場・政府を通さずカネをバラ撒いてくれるわけだから、これら寄付者は当該地域に大いに関係があるといえる。なんといっても、その大義は地域の応援なんだから。
しかしながら「ふるさと」といえば聞こえはいいが、実際にそこにあるのは、顔の見えない「カネ」と「モノ」との歪な交換だけだ。別に魅力のある返礼品が供給されれば、これらの人は他の自治体にすんなりと乗り換える。つまり、理念と施策と現実はそれぞれ異なる方向を向いているのだ、不公平をも伴って。
















