はじめまして。
当ブログにお越しいただきありがとうございます。
仲谷一祐(ナカヤ カズヒロ)と申します。
現在、大阪と奈良にて易占業を営みつつ、タオと陰陽五行の研究に親しんでおります。
どうぞよろしくお願いします。
さて、本日よりアメブロを始めるにあたり、これから3回にわけて自己紹介記事をお届けします。
本日はその第一弾。
学生時代から青年期に起こった出来事についてお話をさせていただきます。
若かりし頃のエピソードはずいぶん恥ずかしくもあります。ですが、私を理解して頂く一端ともなればと思い赤裸々にお話します。
できることなら広い心で楽しんでいただければ幸いです。
【中二病全開!ちゃらんぽらんな高校時代は黒歴史の始まり】
高校時代の私は、とてもちゃらんぽらんな学生生活を送っていました。
今思い出せば、恐らくある理由が原因で学校に行きたくないという思いが止まなかったのですが、それを差し引いて見ても、真面目な学生ではありませんでした。
盗んだバイクで走りだしこそしませんでしたが、いわゆる「中二病」を長らく患っていました。
尾崎豊現役世代の私ですが、思春期のモヤモヤが16歳ごろにはっきりと言葉になり、30歳になる辺りまでずっと引きずっていたことがその理由です。
曰く「人はなぜ生きているのだろう?」
または「僕たちはどこに向かっているんだろう?」
そして「自分は何のために生きているのだ?」
そのような疑問が消えず、いつまでも答えが出ないまま、皆と同じ方向へ進まされていることが嫌で、だからといってどうして良いかも分からずに、世の中をハスに構えて見ておりました。
高校生にもなると、いわゆる「中二病」をいつまでも引きずっていることがまわりにバレてしまうことは恐怖でした。
それは、たちまち「ダサい」か「ガキ」か、または両方のレッテルを貼られてしまうからです。
そうなると、余計なモヤモヤがまたひとつ増えてしまいます。
自分のことはさておいて、人のことは激しく批判するという、実に厄介な年齢の子供達が集まるのが高校です。
「人はなぜ生きているのか?」などという疑問は、食べていくことが最も大切で、それ以外のことはたいした問題じゃない価値基準を持つ(というより働くことに忙しい)親世代には理解してもらえません。
「中二病」をいつまでも引きずっていることを周りの友人達に知られたくもありません。
※中二病とは思春期に特徴的な、過剰な自意識やそれに基づくふるまいを揶揄する俗語であり、具体的には、不自然に大人びた言動や、自分が特別な存在であるという根拠のない思い込み、またはコンプレックスなどを指します。
そのような理由から、人はなぜ生きているのか?という命題が、哲学の大きな問いのひとつであるというバックアップに勇気づけられながら、私はなるべく学校に行かないようにしていました。
学校に行きたくないのに行くふりをしていたのは、学校を辞めて働くことで迷いが晴れそうにもなく、とりあえずただ時間稼ぎをいつまでも続けていたかったからだと思います。
高校三年生の頃になるとその傾向はひどくなり、ますます学校をサボるようになります。
ほぼ毎朝、父親のフリをして低めの声で「今日も息子は遅れる」と、学校に連絡を入れます。今思えばおそらく事務方の先生にはバレていたと思います。もしかしたら一番私を理解していたのか、それとも面倒くさいことに巻き込まれたくなかったのか、今となっては知るよしもありません。
とにかく事務方の先生は「分かりました」と、黙認を続けてくれました。
それから近所の喫茶店に出かけてモーニングを頼み、週刊少年ジャンプを読んで時間を潰すというのが日課でした。
そして、お昼前に学校に行って弁当を食べ、あとは早退して友達とのバンド活動、作詞活動に勤しむという生活が続いていました。ちなみにもちろん作詞のテーマはいつも「なぜ生きているのか?」というものです。
そうこうしているうちに、進路を決める最終時期になります。そうなのです、周りのみんなはもっと前に「なぜ生きているのか?」という問いなどには早々にけりをつけ、目の前の受験にすでに集中していたのです。
もちろんそのことも分かっていましたが、私はなぜか絶対に流されるものかと、答えの出ない河の真ん中で踏ん張り続けていました。
勉強をほとんどやってこなかった私ですが、当時は絵を描くことが好きだったこともあり、地元大阪の美術系の大学への進学を希望します。
実は2年生になる少し前から、こっそりデッサンを教えてくれるアトリエに通っていたのです。
デッサンを続けていると、無心になれる時があって気持ちがほんの少し晴れます。
ところが学校では当然のごとく内申点がまったく足りません。
地元にある、内申点なんか要らないという噂の美大にさえおぼつかない程でした。
学校の美術部に在籍していたものの、受け持ちの先生も幽霊部員である私のことなどすっかり忘れています。
これまでの数々の行いが、ここに来て仇となってしまったのです。
選り好みしている場合でもない私は、これまで聞いたこともない九州の某大学の芸術学部を受験することにしました。
どうなることか、知ったことかと、投げやりな思いのままでの受験でしたが、なぜか合格していました。
高校卒業後に知ったのですが、もし合格していなければ学校は私を卒業させるつもりがなかったそうです(これも感謝しかありません)。先生方の思惑に反して受かってしまったので、仕方がないからとおまけで卒業させてもらえたようです。
とにかくこうして私は慣れ親しんだ地元を離れ、新たな地で大学生活をスタートさせたのでした。
ところで思い出しましたが、高校生の頃、私が好きだった女の子の母親に「あなた将来いったい何になりたいの?」と聞かれたことがあります。
その際私は「仙人かルンペン」と答えたことがありました。
自由がどのようなものかも分からないまま、自由になりたかったのです。
今となれば、仙人やタオや易の道に縁が付いたのは、いつまでも「人はなぜ生きているのだろう?」という疑問を抱き続けたことが大きな理由のひとつだと思います。
なぜなら易は問うことをしなければ答えが出ないからです。
そしてこれも後で分かるのですが「問うこと」は、人生を開く大きな力なのです。
【いつの間にか○年生!やりたい放題だった大学時代】
大学に入って周りを取り巻く環境が変化しても、私の生活のちゃらんぽらんさは変わりませんでした。
むしろ親の目がない分、好き放題さに拍車がかかる一方です。
当時は居酒屋でアルバイトをしており、ラジオの曲紹介やリクエストを受ける、DJのような仕事をしていました。
大学も、思ったような大人物(実におこがましい学生でした)にも出会えないと、ひとり勝手に腐っていました。
バイト先で知り合う同世代の人達も「いつか一旗あげたい」ことや「誰かと較べて自分がすごい」ことに興味があるばかりです。
なぜか「東京」と「地元」を較べてばかりで、そのような言動は、私の高校時代ではまるまる「かっこ悪い」とされたことです。
「それなら東京に行けばいいのになぜ行かない?」などと言ってしまう私も結局浮いてしまってますます気まずくなります。
当時は悪気がなければ正直に話すことが何より良いと、思いやりに欠けていました。
何だかつまらないのでバイトのない日はインターナショナルバー(いわゆる外国人バー)に入り浸っていました。
そこに来る日本人は、自分の居場所が見当たらないような帰国子女が何人も集まっていましたので、何となく居心地が良かったのを覚えています。
アルバイトに明け暮れ、学校には行かず、課題も出さない。
そのような生活が続けば、当然進級もスムーズにいかなくなります。
気付けば私は大学5年生になっていました。
あるとき、実家から電話がかかってきました。
そこで父に「お前、何年(卒業までに)かかるんや」と問いただされます。
それまで私の行いを許し見守ってきてくれていた家族でしたが、いよいよもって不安がピークに達したのです。
ですが、ちゃらんぽらんな状態の自分に慣れ切っていた私は、「あと3年くらいかな?」と、およそ誠実とは言いがたい返事をしてしまいます。
当然父は大激怒です(今はもう感謝しかありません)。
その週のうちに、迎えにやってきた家族に取り囲まれるようにして、大阪の実家に戻ることになりました(今思えばありがたいことです)。
【心が壊れる寸前!!ストレスだらけだった測量事務所時代】
大阪に戻った私は、きちんと就職することを選ばず、いろんな場所で仕事をしました。
もちろん「人はなぜ生きているのか?」「自分はどこに向かっているのか?」の答えは分からないままです。
仕事の中でも一番印象に残っているのは、ある測量事務所の仕事でした。
体育会系だったこの職場には、人がすぐにやめてしまうという悪評がありました。所長はボクシング部上がりの、いわゆる「怖い先輩」がそのまま大人になったような方です。
もしかすると、今でいう「ブラック会社」だったのかもしれません。
なにせここの所長がめちゃめちゃ厳しい人でした。
先輩のあとを引き継ぐような形で採用されたものの、「3か月持てばいいかな?」くらいの軽い気持ちで働き始めました。
入社後すぐに知るのですが、スタッフの最長勤務記録が6ヶ月でした。
ほとんどがひと月以内に辞めてしまい、3ヶ月というのは長い部類だったのです。
測量は、正確さ、細やかさが求められる仕事です。ミリ単位の誤差でダメ出しされます。
例えば土地などを測る時、誤差3mmはOKで、誤差5mmはダメ、やり直し。図面に起した時に、面積が大きく違うからです。そういう仕事でした。
20歳をそこそこ過ぎてもまだちゃらんぽらんさが抜けない私にとってこの作業は相当なストレスでした。
測量は一人では計測できませんので、失敗するたびに下っ端の私にもプレッシャーがかかります。
初めて計測を任され、何度もやり直しをした後、やっとのことでOKをもらえた時は本当に嬉しかったです。
とはいえ他にもしんどいことが多すぎました。
所長は、スタッフに対して自分の限界までやるよう求める人でした。なぜ出来ない、もっと頑張れと、本当によく怒りました。
真冬の極寒の中、河川の深さを測ったことがあります。
胸まであるゴムのズボン(釣りする人とかが着るやつ)を着込み、そこそこ早く流れる河の中を気をつけながらそろそろと進んでいきます。初めてであろうとなかろうと所長には関係ありません。
曰く、「どんなことも初めてはあるから気にするな。」以上。
もちろん、体に水が入ってこないギリギリの深さまで進めと指示されます。河の水位が高くなるほど、身動きが取れなくなっていきます。水の力は侮ってはいけないと初めて思い知らされます。しかし、前に進むしか道はありません。
「もう無理です」と私。
「(服の中に水が入るまで)あと何cmや?!」と所長。
「1cmか2cmです!(寒さに震えながら)」と私。
「よし、分かった!」
そこでほっとして測量用の棒を真っ直ぐ立てようとしたところで、
所長「背伸びしてもう半歩出ろ!」と指示が飛び、「もう無茶苦茶や」と、やけっぱちになって大きく一歩深みに入っていったことは今でも忘れられません。
若い人も次々に入所しては、どんどん辞めていきます。ほとんどが辞める前には何か事件(!)が起きて、仕事のキツさに心が折れ、泣かされて次の日から来なくなります。
ある冬の日の河原では、刈った後の茎が尖り繁っている中を限界まで進まされた新人が、作業ズボンを血だらけにして痛い痛いと泣いて動けなくなって、次の日から来なくなったこともありました。「ふん。しゃあ無いわ。」と、意にも介さない所長の鬼っぷりに恐ろしさを覚えました。
とにかくこだわりが強く、言い訳は何も言わせない、絶対君主のような人でした。
それは通常の業務以外においても同様でした。
新人は、所長の弁当箱を洗う役も任せられるのですが、私が初めて担当を任されたときの思い出もあります。
「バラン」(お弁当箱に入れるツルツルした緑の葉っぱです)を捨てようとしたところ、
「なんで捨てるんや!洗ったら使えるやろ!」とひどく怒られました。アルミの小分けカップも同じです。
せっかく新人が入ってきてもすぐに辞めてしまうので、また私が新人でバランを洗う係に逆戻り、そういうことが繰り返されます。
所長はとにかく仕事に真面目で人一倍熱心な人で、そしてそれ以上に細かい人でした。
私たちは午前中は朝早くから外に出て測量し、午後戻ってから深夜まで図面に起こす作業を続けます。時々は法務局に出入りして登記申請の書類を出したり、とにかく元気でないと務まらない、ブルーアンドホワイトな業務内容のブラックな会社だったと言えば少しは気が晴れます。
思い出しても、理不尽と感じるようなことでよく怒られました。しかし、今思えばバランなどSDGSの最先端を行っていたのかも知れません。
そうやっていろんな思いを抱えつつも働き続けているうちに、気が付けば入職当初の予想よりも長い月日が流れていました。私は辞めることなく歴代スタッフ勤務日数の最長記録を更新していたのです。
ところでブラック会社の人が自殺したりしますが、私には何となく分かるような気がします。中にどっぷり浸かってしまうと、生活のすべてが会社になりますので、辞めるという選択肢がなくなるのですね。辞める=生活を辞めるという勘違いがおきてしまうのです。
ある時、私は自分の精神に異変が起きていることに気が付きました。
「鬱(うつ)」のような状態になってしまっていたのです(当時は今ほどその言葉も知られていませんでした)。
休憩時間になると、じっと空の雲を眺め続けたり、手鏡をじっと見つめ続けます。ご飯もタバコも前おいしく感じませんでした。正確に言えば、おいしく感じても喜びがありませんでした。
心が麻痺したような、何もかもどうでも良いような。麻痺している感情が、突然泣きたくなるような、叫びたくなるような時もありました。
何だかこれは死んでしまう予感です。というか、心が死んでいるので体が死んでも大したことないように考えていたと思います。
変わらないハードな仕事、そして所長の厳しさ(細かさ)によるストレスが、気付かないうちに私の心を蝕んでいたのでしょう。
きっと私の心はこれまでにないほどの大きな悲鳴をあげ続けて、終わりの頃にはそれも諦めて、何もかもどうでも良くなった後で、やっと嫌だと言えたのだと思います。
「もう働くのは嫌だ」
「こんな場所にいたくない、日本にいるのさえ嫌だ」
そんな思いが自分の中をグルグル駆け巡ります。
こうして私は1年半勤めた測量事務所を辞めることを決意したのでした。26歳の頃です。
【ここではないどこかへ!!日本脱出への道のり】
ありがたいことに、退職時に所長から「長く働いてくれたから」ということで、金一封をいただきました。彼は人情に厚いところもありました。ただ、金一封をもらうまで、長く話を聞かないといけませんでしたが。
仕事を辞めた開放感が残ったままのその足で本屋に向かった私は、当時の海外旅行のバイブル的存在だった「地球の歩き方」のコーナーの前で足を止めます。
これまで海外旅行の経験もなく、英語もろくに話せませんでしたが、そんなことは関係ありません。
「ここから遠いところへ行けるのならばどこでもいい!!」
そんな気持ちでいました。
目の前には、世界中の国の名前が記載された背表紙が並んでいます。
その中から私が手にしたのは、「ネパール」でした。
国名を耳にしたことはあっても、詳しい場所も、そこにどんなものがあるのかも知りません。最初に手に取ったのがその本だったのです。
それでも私は、迷うことなくネパールに行くことに決め、レジに本を持っていきました。
適当というか大胆というか、かなり直感的な選択でした。
そこからもわたしの迷いなき選択は続きます。
すぐにパスポートを申請し、旅行会社に行きました。
当時の海外旅行はツアーが主流でしたが、私の目的は観光ではありません。
旅行会社のスタッフに「ネパールでなるべく長く滞在したい」旨を伝えたところ、オープンチケット(1年間有効)を購入することが出来ました。というか、オープンとフィックスの航空チケットがあることを初めて知りました。
(この選択も海外が初めての人間にとっては、大胆なものだったと後で知ります)
準備を着々と進め、いよいよ出発の日です。
新品の大きなリュックに荷物を詰め込んだ私は、見知らぬ土地への不安よりも日本を離れられることにほっとしつつ、ネパールへと旅立ったのでした。
右も左もわからないはずの私でしたが、心のバランスを欠いていたといいますか、へんなところで強気だったのでガイドブックなど必要ない!と「地球の歩き方ネパール」は家に置いてきてしまいます。
おかげで到着後、即自分の選択を後悔することになります・・・とほほ。
(スマホもネットもない時代のことです。手元に情報のない状態で初めての国を訪ねるなど無謀すぎました。しかし、同じ人間が暮らす国、なんとかなるものです。)
【初めての国際線!!機内食でやらかした話】
海外旅行が初めてなら、国際線に乗るのも初めて。
何もかもが初めて尽くしだった私には、忘れられないエピソードがあります。
それは機内食が出てきたときのことでした。
コーヒーに砂糖とクリープを入れたのですが、なかなか混ざりません。
「変やなぁ・・・」と首をかしげる私に、隣に座っていた日本人のご婦人からツッコミが入りました。
「それ、コーヒーちゃうよ!」
「えっ!?」
そこでやっと自分の勘違いに気付いた私。
実はコーヒーだと思っていた液体は、茶そばのつゆだったのです。
「・・・オーマイガー!(心の声)」
今じゃ笑い話ですが、あのときは本当に恥ずかしかったです。
このブログを読まれている皆さんにも、機内食で何か思い出はありますか?
同じような経験をされた方がおられる・・・といいな(お仲間です)。
さて、そんなやらかしたエピソードもありつつ、無事ネパールに到着しました。
私の26歳は、人生の大きな転機の幕開けでした。
ということで、明日の記事に続きます!
明日は、ネパールでの体験やそこでの大きな気付きについてお話したいと思います。
公式LINEでは、易と風水とタオ的世界について、
メッセージをお届けしていますのでご登録ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。