東名でのアオリ運転の処理 | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

東名でのアオリ運転の処理

自分の意向のみでモノをいう。

その意向の結論から申し上げる。
この日本という国が、バランス感覚を失わなくって、よかった。

歴史における大津事件を思い起こす。

あの日、出自、社会的地位の貴賎上下の差別区別なく、等しく法を適用したことで、この国は、友国を増やした。
法治を『輸入した』国が、最低基準を満たしたことで、法治を『獲得した』国から、法治国家の端くれとして認められたのだ。

『認められた』は、悔しい言い回しだが、力のない正義は半文の価値もないことを思えば、他の言葉は浮かばない。

そんなフォロアーの時代を100有余年過ごし、今、サナギからオトナになった気概を感じる。

法治国家と言えども、法が正義を守りきれるか否かの議論となれば、法治など投げ捨て、正義を優先する。

正論だ。

法は正義を守るためにあるのであって、社会的に重大な影響を及ぼす不正義な事件に対しては、法に不備あれば、法を『建て付けてでも』という気概を感じた。今回。

地裁への当事者としての訪問などは日常茶飯事と感じる私としては、この変化は、涙が出るほど嬉しい。

民衆が法治を『獲得』した国では、正義を貫くためになら、法を曲げる『法』がある。

民衆が法治を『輸入』した日本では、『法』を絶対として、正義をはばむ。

今回の『検察による法運用』は、間違いなく、法治を『獲得した』民衆が選択した法の番人たる検察の行動基準だ。

私は、何回も、『輸入した法治』の壁にぶつかり、不正義が勝つ裁判をみてきた。

検察にエールを送る。

心配するな。

戦前の『おいこら警察』など、復活しようのないほどに、『教育』は行き届いているから。
警察には。