期待 | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

期待

相手の成長を促すことになったとしたら、
その『期待』は、すばらしい。


そんな『期待』を、誰に向けても、
届けられたら、すばらしい。


そして、同時に、感じる。


『期待』する側の事情で、
『期待』している現状を。


子どもの将来に対する『親の期待』
部下に対する『上司の期待』
『期待の新人』に対する『関係者からの期待』


両者の関係性の中には、存在し得ない
『一方に対する他方の所有権』を、
『存在している』と勘違いする場合に、
この『期待』が、蔓延する。


客観視すると、どうだろう。


自分が『期待される側』の場合、
どんな『期待』なら、嬉しいだろう。


自分の存在を認めてくださり、
誰でも、思い描いたとおりに行動すれば、
自分の将来を『思い描いたもの』にできる。


そう信じて、思考や行動を支えてくださるのなら、
とても、嬉しい期待だな。。。


転じて、過去や現在までの実績をもとに、
『この人は、きっと、できるはず』的な期待を
私は、『期待』だとは、思わない。


そんなの単なる『妄想』


『期待をする側』が、自分の都合で、
相手に、『こう、なってほしい』。。。
相手に、『こう、あってほしい』。。。


そう思っているだけ。。。


もっとも、『期待』と『妄想』という言葉。。。


その意味合いの違いを、
記事にしたいわけでは、ありません。


厳しく言えば、この『妄想』が、
自分も、相手も、潰してしまう危険をはらむ。


そう感じているだけ。


『期待』という名の『妄想』は、
『妄想』する側の勝手な思い込み。


相手に、ぶつけなければ、いいけれど、
『人間』が、そんなに、器用だとは思えない。


『妄想』は、勝手に、相手を
『良い色眼鏡』を通して見て、更に、
実態からは乖離した『期待』を匂わせる。


相手は、つらいもの。


そして、何より、
その『期待という名の妄想』の危険性は、
『妄想』した側の望む未来が、あたかも、
『その先に、輝いて存在している』ように、
『妄想』した本人が、感じてしまうこと。


この危険性の危険なところは、
自分の『未来予想図』が、
その先にはないことに、『気づくのが遅れ』、
『手遅れ』になることだ。


もちろん、人生は、気づけば、
どこからでも、やり直しが、きく。


そして、もちろん、
軌道修正は、早いほうが、ラクだ。


早い気づきを妨げる期待。。。に見える妄想は、
妄想する側が、自分に麻酔を打ち、
自分の望む将来に向かって走る際の苦痛を
紛らわせているに過ぎない。


あまりにも多い、
『正しいと言われる価値観』の中で、
何が、正しいかは、判断しないが、
私は、このように感じている。