an underlying idea(手を差し伸べて)
Do unto others what you want others to do unto you.
キリスト教で、必ず、説諭に出てくるフレーズです。
このフレーズが、キリスト教圏内の人々の、
対外的な積極性に、大きな影響を与えています。
日本人は、ず~~っと、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
と、教育され続けてきました。
つまり
Don’t do unto others what you don’t want to be done from others.
ですね (*^-^*)
ここに、強烈な社会の基盤の違いを感じます。
どちらが、よいということではなく、
どちらも、その考え方が機能する
社会基盤がなければ、機能しません。
キリスト教の世界では、
たとえ、『おせっかい』でも、
『おせっかい』されたほうも、
しっかりと、『ありがとう』です。
きっと、相手は、
自分が、もし、その立場だったら、こうして欲しい。
と思うことを、ただ、誠実に、行動に移しただけ。
価値観の違いを理解していなかったとはいえ、
教えには、忠実に行動したこと、
そして、相手の価値観への配慮不足は、
常に、起こって当たり前。
『明日は、我が身。』の現象だし、
そんな『ヘマ』を
自分が、やらかしてしまったときには、
優しく『ありがとう』と、言ってほしいと思うから、
『おせっかい』に対し、寛容です。
それに対し、日本は、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
ですから、
『人助け』ひとつとっても、
出足が鈍ります。
美しい女性が、転んだ・・・
助けて差し上げたいけれど、
助ければ、
『転んだ』事実が、歴史に残る・・・
助けた【mani】が、転んだ事実に気づいたことを、
『助ける』という行為を通じて、証明してしまう・・・
助けなければ、無視すれば・・・
歴史上から、『その事実』は、抹殺できます。
彼女が、誰にも、言わなければ、それで、おしまい。
もし、彼女に、
その姿で、衆前で、
転ぶことに対する恥ずかしさがあったとしたら・・・、
彼女の、その恥ずかしさは、
無視されることにより、
ぐっと、軽減されるでしょう・・・。
もし、彼女の心に、
『誰にも見られていませんように』
という心が働いていれば・・・
日本人の教えでは、ここまで、要求されます。
相手が、一事象に対して、どう思っているかを的確に捉えて、
かつ、それを、決して、間違って捉えては、いけない・・・
結局、事前に、社会全体の価値観のすり合わせが、必要です。
異文化の導入のない均一的な価値観のみを認める時代は、
日本の教えは、高度に機能していました。
結果、居心地のよい人間関係を構築できました。
でも、今となっては・・・・・
もう、誰もが、わかりますね。
無理です。
それにも、関わらず、
相変わらず、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
と教えています。
悪いけれど、無理。
結果、
誰もが、周りを助けない、
誰もが、見てみぬふりをする。
助ける心と、そのタイミングの訓練すら・・・
誰も、しなくなります。
少し、おせっかいでも、
『人からされたいと思うことを、人にしなさい』
に、『教え』を変えないと、
草の根での相互扶助は、機能しない。
あまりにも、多過ぎる
『正しい』と言われる価値観の中では・・・
人を見抜く力を養う訓練をするには、
越え難く、あまりにも恐ろしい価値観の差異が、
日本の中に、同時に存在しています。
社会的価値観の統合に、『悪』のレッテルを貼ったから。
個人の自由を尊重する、という言葉を、履き違えたから。
ですね。
結果、見抜く力を養う機会が、なくなりました。
怖くて、動けないから。
見抜く力のない人にとっては、
さらに、危険すぎるから・・・・・
結果、だれも、いなくなる・・・・・
見抜ける人が・・・・・
『見抜く』なんて、所詮、不可能なのに、
この日本人社会では、それを、
明確に、求められてしまう。
引っ込み過ぎては、役には立たない。
出しゃばり過ぎれば、袖にされる。
自分の中の正しさに、囚われている人を見ると
悲しくなる。。。
世界から、取り残されちゃうよ。。。
キリスト教で、必ず、説諭に出てくるフレーズです。
このフレーズが、キリスト教圏内の人々の、
対外的な積極性に、大きな影響を与えています。
日本人は、ず~~っと、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
と、教育され続けてきました。
つまり
Don’t do unto others what you don’t want to be done from others.
ですね (*^-^*)
ここに、強烈な社会の基盤の違いを感じます。
どちらが、よいということではなく、
どちらも、その考え方が機能する
社会基盤がなければ、機能しません。
キリスト教の世界では、
たとえ、『おせっかい』でも、
『おせっかい』されたほうも、
しっかりと、『ありがとう』です。
きっと、相手は、
自分が、もし、その立場だったら、こうして欲しい。
と思うことを、ただ、誠実に、行動に移しただけ。
価値観の違いを理解していなかったとはいえ、
教えには、忠実に行動したこと、
そして、相手の価値観への配慮不足は、
常に、起こって当たり前。
『明日は、我が身。』の現象だし、
そんな『ヘマ』を
自分が、やらかしてしまったときには、
優しく『ありがとう』と、言ってほしいと思うから、
『おせっかい』に対し、寛容です。
それに対し、日本は、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
ですから、
『人助け』ひとつとっても、
出足が鈍ります。
美しい女性が、転んだ・・・
助けて差し上げたいけれど、
助ければ、
『転んだ』事実が、歴史に残る・・・
助けた【mani】が、転んだ事実に気づいたことを、
『助ける』という行為を通じて、証明してしまう・・・
助けなければ、無視すれば・・・
歴史上から、『その事実』は、抹殺できます。
彼女が、誰にも、言わなければ、それで、おしまい。
もし、彼女に、
その姿で、衆前で、
転ぶことに対する恥ずかしさがあったとしたら・・・、
彼女の、その恥ずかしさは、
無視されることにより、
ぐっと、軽減されるでしょう・・・。
もし、彼女の心に、
『誰にも見られていませんように』
という心が働いていれば・・・
日本人の教えでは、ここまで、要求されます。
相手が、一事象に対して、どう思っているかを的確に捉えて、
かつ、それを、決して、間違って捉えては、いけない・・・
結局、事前に、社会全体の価値観のすり合わせが、必要です。
異文化の導入のない均一的な価値観のみを認める時代は、
日本の教えは、高度に機能していました。
結果、居心地のよい人間関係を構築できました。
でも、今となっては・・・・・
もう、誰もが、わかりますね。
無理です。
それにも、関わらず、
相変わらず、
『人から、されたくないことを、人にするな。』
と教えています。
悪いけれど、無理。
結果、
誰もが、周りを助けない、
誰もが、見てみぬふりをする。
助ける心と、そのタイミングの訓練すら・・・
誰も、しなくなります。
少し、おせっかいでも、
『人からされたいと思うことを、人にしなさい』
に、『教え』を変えないと、
草の根での相互扶助は、機能しない。
あまりにも、多過ぎる
『正しい』と言われる価値観の中では・・・
人を見抜く力を養う訓練をするには、
越え難く、あまりにも恐ろしい価値観の差異が、
日本の中に、同時に存在しています。
社会的価値観の統合に、『悪』のレッテルを貼ったから。
個人の自由を尊重する、という言葉を、履き違えたから。
ですね。
結果、見抜く力を養う機会が、なくなりました。
怖くて、動けないから。
見抜く力のない人にとっては、
さらに、危険すぎるから・・・・・
結果、だれも、いなくなる・・・・・
見抜ける人が・・・・・
『見抜く』なんて、所詮、不可能なのに、
この日本人社会では、それを、
明確に、求められてしまう。
引っ込み過ぎては、役には立たない。
出しゃばり過ぎれば、袖にされる。
自分の中の正しさに、囚われている人を見ると
悲しくなる。。。
世界から、取り残されちゃうよ。。。