法と正義 | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

法と正義

はっきり言うけれど、
大半の人には、満足できるだけの金と力は、ない。



それでも、みんな、
今の世では、何とか幸せに生きている。



法が弱者を保護し、
その法は民主主義に守られているからだ。



ありがたい話である。



しかしながら、
法とは、正義を元に構築されるものであるゆえに、
どうしても社会現象の後追いに、なりがち(特に日本は)だ。



よって、社会を円滑に運営させるためには、
法令化されていなくても守るべき(むしろ護るというべきか)正義が、
どうしても、必要となる。



金と力のないものにとって、
法と正義が、わが手にあるときほど心強いことはない。



でも、
自分の信じる正義と現行法の間に、
歪みが生じている状況になったら、
どうする?



私の行動規範としては、

「危機のとき以外は、まず、『法』に従って行動し、
かつ、その『法』が『正義』沿うていないことを静かに請願する。」

である。



危機のときは、『法』を捨て、『正義』を採る。



なぜならば、
『法』とは、過去数百年の常識の集大成であり、
『正義』とは、今、この地における良識の集合体である
と信じているから。



これによれば、
『法』が『正義』を追い越すことは稀で、
多くの場合、『正義』に、おいていかれる、
と考えるべきだ。



社会が複雑化すればするほど、
この乖離は大きくなりがち、と考えるが、
人間の叡智により、
両者が遠距離恋愛にならないことを信じたい。



では、『危機』とは、なんぞや。



危機の時とは、
当該事項に関して、
特段の知識があるわけでもない一般市民でさえも
「このままでは、まずいことになるぞ。」
と感じる時である。



『待ったなし』の状態である。



学者や専門家が、
「このまま何も対策を打たなければ大変なことになるであろう。」



などとマスコミのインタビューに答えているうちは、
まだ『危機』ではないのである。



『危機』の際にまで法律論をぶつ輩がおる。



責任逃れ体質の極みと言えよう。



弊社(私が社長を務める『あえて、務める(笑)』会社)では、
責任者の事前許可なしに
社用車の助手席に人を乗せては、いけないことになっている。



もちろん、最高の自動車保険には加入しているが、
万一の際、『金』なんかでは、
取り返しのつかないものを失う危険を孕んでいるからだ。



しかし、目の前で人が倒れていて、



「このままでは、まずいだろう。
救急車よりも自分で動いたほうが、
医師に見せるまでの対応が速やかである。」



と信じたときには、
助手席に乗せて病院へ走れ。
というルールになっている。



もちろん、責任者の許可など要らない。



結果として、
車に乗せずに安静にしていたほうが良かった、
と、責任を追及されるかもしれない。



が、それは、きっと、やむをえないであろう。



私は責任者として、その責任を取りましょう。



世の中には私の骨を拾ってくれる人がきっといる。



運転者が、
下記の批判を受けることだけは、許さない。



『おたくの車は、前を通り過ぎていってしまったのよね。』
だけは。