40年戦争 (男女同権『日本の男性!!並んで歩いて!!』)
2010年1月5日読売新聞東京版
桐谷エリザベス氏のコラム
やっと。。。
やっと、【mani】の感覚に近い発言が、
広く世に出ているのを発見して、
安心しました。
そう、【mani】が、小学4年生。
つまり、1971年。
性差別について、
憤りを感じていた、あのころ。。。
【mani】が、出していた結論に、近いもの。。。
記事を抜粋
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タイトル 日本の男性!!並んで歩いて!!
多くの外国人は、レディファーストに気を配りながら、
道徳的・文化的優越感を感じているのかもしれません。
【mani】のつぶやき
↓↓↓
(ん!? 誰に対して!?
日本人・日本文化に対して!?それとも女性に対して!?)
一方、日本では、男性が先というのが伝統です。
だから、どうだ、というのでしょう。
習慣の違いに過ぎません。
日本なら日本式、西洋なら西洋のやり方で、
どこが、いけないのかしら。
しかし、もし、互いに合わせるとしたら、
私の優先順位は、まったく、異なります。
どちらが先に行くか、などという、
意味のないことではなく、コミュニケーション
日本人男性は、奥さんと歩く時、
並んで歩こうとしない。
ほかの国では見られない光景。。。
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【mani】の価値観との共通点
レディファーストなんて、無意味!!
(男女同権という意味では、ね (^_-)-☆)
ということ。
少なくても、
女性を対等に、かつ、
大切にしているという、男性の、
『心の表現』などというものではない。
ただの『ディスプレイ』。
いえいえ、
『性別を意識して優遇』するような、その態度。。。
むしろ、西洋文化の性差別の象徴にしか見えない。
本当に、平等で、
性差を意識しないなら、
お互いに、対等に。。。
先回りして、ドアを開けるなら、
レディファーストの心からではなく、
『その人』への真心から。。。
【mani】は、今、
扉に、先回りすることも多いですが、
レディファーストの概念で、
扉に、先回りは、しません。
その人を大切にしたいから。。。です。
その表現のひとつだというだけ。
女性でも、男性でも、
お年寄りでも、若者でも、子供でも。
健常者でも、ご不自由のある方でも。
仲良しでも、今日はじめて会った人でも。
一期一会の見ず知らずでも。。。
大切にしたい人だから、
大切に、扱う。。。それだけ。
もちろん、相手を選びませんよ(笑)
その行動を採る余裕があれば、
必ず、行動します (*^∇^*)
あっ、男女の体力の差は、
ものすごいものが、あることを、
十分に、存じ上げております。
肉体的苦痛への耐久は、
その多くを男性が担ってこそ、
はじめて、『対等』でしょうから、
そこは、完全に、性差別をする【mani】です(笑)
そうそう、そして、とっても、気になるコラムの言葉。
↓↓↓
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日本人男性は、奥さんと歩く時、
並んで歩こうとしない。
ほかの国では見られない光景。。。
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【mani】は、夫婦だろうが、誰とであろうが、
ふたりで、歩くときには、並んで歩きますぞ!!
(夫婦ゲンカ勃発直後を除く~~~(笑))
でもさ、日本の狭い歩道では。。。
実際には、多くの場所で、
並んでは、歩けませんぞ。。。
周りの迷惑に、なっちゃうもん!!
(笑)
と、戯言は、置いておいて、
『狭い日本』を『ハンデ』としても、
『ほかの国では見られない』。。。
つまり、西洋では、みんな、並んで歩いている。。。
もし、これが、真実ならば、
【mani】の
『レディファーストなんて、
西洋文化の性差別の象徴にしか見えない』
という価値観。。。
もしかしたら、
根幹から、崩さなければいけないかもしれません。
コラムニストが、
【mani】の姿も見ずに、
『日本人男性は、奥さんと歩く時、
並んで歩こうとしない。』
と、言うわけですから、
まあ、『ほかの国でも、並んで、歩かない』男も、
少なくないとは、思うけれど。。。
ただ、夫婦や恋人同士の場合、
並んで歩く外人さんの姿を
多く見かけることは、事実だな。
この行動を解析するにあたり、
それが、西洋文化における
『男女の対等』を意識したものであったとしたら、
【mani】にとっては、青天の霹靂。
西洋文化の性差別って、
表面化していないけれど。。。
とても、ここでは、書けないけれど、
\(◎o◎)/だもん。。。
【mani】は、誰とでも、並んで歩くけれど、
それを、『男女の対等』とは、結び付けていなかった。
ただ、単に、『人の平等』とともに、
親密さを増すのに、
『有効なコミュニケーションポジション』だと、
捉えていたから。
【mani】は、形式的に必要な場以外では、
誰とでも、並びますもん。
『日本人夫婦』が『夫唱婦随』で歩くのは、
『近親者と、公共の場では、親密な態度を取らない日本文化』
と、同時に、
男性が女性を支配する構造の過去の文化的権利と、
その反面的義務としての、
何が何でも、女性を守護しなければならない任務。。。
そう。。。
外敵から、女性を守るためには、
男性が矢面に立って、
道を切り開いていかざるを得ない
そんなところからだ、と、感じていました。
まあ、社会科学だから、
いろいろな分析があるのは当然ですがね(*^_^*)
それでも、とにかく、
レディファーストは、
女性を大切に扱うことと、イコールではないのだ。。。
このことを、やっと、日本の新聞も書けるようになった。
それが、うれしい。
今までも、口には出さずに、
そう、感じていた人。。。
多いかもしれません。
でも、全国紙に書き込まれたことが、すばらしい。
惜しむらくは、『東京』のページだったこと。
全国記事になるのは、
いつの日だろう。。。
【mani】は、
小学4年~5年(1971~2年)
荒れていました。
【mani】の目には、
男性も、女性も、大切に、対等に扱うという概念、
すなわち、『男女平等』とは、
まったく、かけ離れた行為に映った『レディファースト』
性差別を助長するものに、見えた。。。
小さな子と、ゲームをするとき、
その子を『おみそ』にしますね。
もちろん、小さい子は、
今、『ハンデ』を負っているのだから、
『おみそ』で、よいでしょう。
一緒に遊ぶための知恵だもの。
そして、
彼ら彼女らは、いつか、大きくなって、
すっかり、対等に、なるでしょうから。
でも、どうなのよ。
女性が、自分でできることまで、
『やってやる』ことは、
女性の自立を停滞させ、
女性の心の中に『男性の庇護の下』の概念を植え付け、
男性側は、庇護の見返りとして、上位に立つ。。。
女性にとって、
ある意味、『ラクチン』かもしれないけれど、
『対等』とは、ほど遠い。。。
男女同権、男女平等は、
とても大切な概念だと思っていた【mani】は、あのころ。。。
『レディファースト』が、容認できず、
教師と戦っていました。。。
どうしても、わかってもらえなかった。。。
今、雪解けを、感じます。。。
そんな新聞のコラムでした。
あれから、もう、40年近くか。。。
(-。-*)o