日本の裁判員制度・・・ | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

日本の裁判員制度・・・



検察が、専門家として、

専門家である裁判官を、

専門用語で、

説得、納得させられるか否か。

だけだった日本の裁判。

被害者の目も国民の目も無視して

ただ、ひたすらに、裁判官を落とす・・・

裁判官が審議することは、

現行法体系上の違法性と過去判例との整合性。

専門用語を駆使して・・・

それだけ・・・

それでは、主権者たる国民の理解を得られなくなってきたから、

素人の主権者を交えて・・・

って、大丈夫!?

陪審員制の成り立ちすら知らない人たちが、

うまく、使いこなせるかしら?

素人の主権者が、

わかっていないだけではないでしょ!?

法曹界の人も、たぶん、全然・・・

だって、司法試験に出てこないもの・・・(笑)

まず、今の日本の裁判は、

目指すものが、欧米とは違う・・・

まあ、これは、法曹界の人は、

わかっているでしょうね。

国民は、ちと、あやしい・・・(笑)

この点については、何日か前の

『日本の裁判・・・』を読んでくださると、

ありがたいです (*^-^*)

欧米の陪審員制は、

中世ヨーロッパの裁判制度に由来します。

案外、新しい!!??

中世ヨーロッパは、群雄割拠。

だから、領主ひとりひとりは、

強大な力を持っていなかった。

だから、領民の裁判にあたるにつき、

自分が前面に出ることを恐れたのね!

誤審による、暴動が、怖かったから。

でぇ~、編み出されたのが、

陪審員制度。

陪審員が結審して、

領主は、その判決を権威付けるだけ。

要するに、領主は、判決を言い渡し、

それを当該争議の法的な結論だ。

と、言うだけ。

判決が、間違っていても、

『俺のせいじゃない~~~~!!』

って、ことね (*^-^*)

陪審員は、

裁判当事者の近所の人や親戚が選ばれていました。

その大義名分としては、

当事者の『人となり』まで

よく知っているであろうから、

正しい判断ができるであろう、

というもの。

そして、公平、公正を保つため、

原告、被告とも、もし、判決に不服とあらば、

『陪審員に対して』、決闘を申し込むことができる。

と、なっていました。

陪審員も、命懸けだから、

不当な判決は出さないだろうという牽制。

すごい牽制方法ですね。

老人や障害者は、決闘を申し込まれた際には、

『代理』を立てることができたようですが、

その他は、ご本人。

衆前で、公開の決闘だったようです。

一方が、死ぬか、

『参った』と言って、

判決内容など、それぞれの出張を変更するまで、

決闘は、続きます。

もちろん、決闘の場で、

負けそうになったほうが、

『交渉』により、

相手の言い分を聞き入れて、

決闘が途中で終了する・・・

だそうですが。

でも、下手に変えれば、

今度は、相手方から、

決闘の申し込みも・・・・・

陪審員に対する、すごい、牽制。

要するに、欧米の裁判の目的は、

大の大人が、双方の争点について、

納得できる落とし処を見つける場所。

法的に正しいかどうかなんて、

関係ないんです。

大の大人が、命懸けで、動けば、

それは、それで、道は開ける・・・・・

自分の意志など持たず、

すぐに、周りとの調和・調和・調和

という民族にとっては、

ちょっと、すごいことだけれど、

これこそが欧米の社会のルールを形成している

個人の尊厳の根っこ。

大の大人が、本気なら、自分で責任取れるなら、

何をやっても、周りは、過干渉しない。

この文化、価値観の根源ですね。

そのかわり、全責任を自分でとることになります。

日本の裁判制度では、

法的正義の所在のみを追及するわけだし、

裁判員も中世の陪審員のような覚悟をしていないどころか、

陪審員制の成り立ちすら、知らない。

そんな中での裁判員制度、

機能しない・・・

でしょ!!