日本の裁判 世界を知らない、想像力の欠如した三流サラリーマン(その2) | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

日本の裁判 世界を知らない、想像力の欠如した三流サラリーマン(その2)

さてさて、昨日の続きです。

欧米の価値観を取り入れた民主主義を土台にした法治国家。

『世界の主流』ですね。

日本も、その端っこに、います。

母国ですから、『真ん中』、とか、

『真ん中辺』と、言いたいところですが、

こと、このことに関しては、

崖っぷち。

理由は、『真ん中の位置がずれてきている』のに、

100年以上『真ん中』に、胡坐をかいてしまったから。

『法』と『正義』の力関係が変わったからね。

この話も、また、そのうち・・・(*^-^*)

今回は、裁判所は、何をするところか・・・が、テーマ。

日本の裁判所は、

法に基づく『法的正義』の所在を明らかにして、

『法的に正しいもの』を決める場所。

法的に正しければ、それでよし。

加害者、被害者、そして世の中の

人の心に宿る正義感など、

ボロ雑巾以下の価値しかありません。

最近、混合医療の問題で、

少し、『正義』も意識し始めたかな(笑)

『世界の主流』の裁判所がやっていることは、

当事者双方が、納得できる『落とし処』を決めること。

『特別法は、一般法を駆逐する』わけですから、

当事者間で、納得できれば、

一般法や過去の判例は、二の次、三の次。

さっさと、判決が下り、

その決定こそが、『法的拘束力を持ち』ます。

法は、争点に決着をつけるための大切な基準ではありますが、

双方が、法的正義の落ち着き先と、

現実の落とし処は、別であっても

やむを得ないと考える場合は、

それもOKです。

日本じゃ、『違法性』や、

『過去の判例』との整合性を問われちゃう。

誰が? って、裁判所が (笑)

『世界の主流』の裁判所では、

法的に正しくても、

自己の主張する線を争うと、

証明に、時間と金が、かかりすぎる。

社会の目から不正義に見える。

結果、裁判後の社会の冷たい視線がマイナスに働く。

などと感じた場合、

とっとと、別の『落とし処』を模索します。

法的正義を貫いて、裁判に勝っても、

損をしては、なんにも、ならない。

ということと、

法的正義を貫いて、

社会の冷たい視線を浴びるということは

その法は、正義に照らし合わせてみると、

時に、『不正義な』状況に追い込まれている、

不備のある『法』だということ。

『法は、正義を守るもの』で、あって、

『今の正義に根差さない、古ぼけてしまった浮き草法』では、

人を裁けないということね (*^-^*)

もっとも、『今の正義』が、いっぱいあるから、

困っているのだけれど・・・

でもさ、

『生身の肘を、車にぶつけたので、湿布を買って、治療した。』

という主張で、

本当に、『事故』に起因する怪我ですか?

通院しなかったんですか?

じゃあ、あなたは、その湿布を購入した理由が、

本件事故に関わる怪我に起因するものであると

裁判所で証明してください・・・・・

そりゃ~、被告を守る法に関しては、

厳密に、厳密に、運用する日本の裁判所ですから、

厳格な証明責任を負わせられる被害者(原告)は、

その証明など、できるはずも、ありません。

だって、今の日本の交通事故のすべての判例は、

医者の診断書なしの『被害』を認知していないから。

そこを争った場合。

でも、裁判を起こすことはできるから、

『状況証拠』と損害額の観点から見て、

湿布薬で、本当に、裁判になったら、

保険会社だって、

反論書を書く手間賃のほうが高い。

書かなきゃ、保険会社が、負けます (笑)

また、

おおげさに、したくなかった。

という被害者の、偶然性に対する、いたわりの心。

踏みにじることにも、なりかねません。

『ギスギス』した世の中への特急券販売は、

やめたほうがいい。

文字数オーバーのため続く・・・