『敵を篤く葬る』 | まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい

『敵を篤く葬る』

2004年11月14日


歴史街道平成16年12月号
『中国から見た日本 日本についての二つの発見』の中の
『第二の発見』について所見申し上げます。


として、著者たる王敏さんへ、手紙を書きました。


彼は、とても、よく日本をご存知だそうです。


だったら、日本人が、根回しせず、臆せずに
もの申すということが、どれほどのことか、
わかってもいいですよねぇ!!


あなたには、わかるでしょ!


かなり、すごいことだって。


これに、返事もしないんだから、
大した『日本通』だこと  (失笑)


さて、そのときの手紙を公開します。


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日本人にとって『敵を篤く葬る』ことは普通のことですが、
中国ではそうではないとのこと。


まず以って、
私はそれを知らず、私の不勉強とともに、
世界に存在する価値観のとてつもない広さに
驚嘆いたしました。


この感情は
多かれ少なかれ世界中のすべての文化に宿るもの
と感じていたからです。


王敏さんは、
この日本人の感覚を
日本の神道と結び付けて書いておられます。


特に『多神教』『神の降臨』を以って
この価値観を説明なさっています。


しかし、それでは『一神教』の文化や
『神』が世界に『君臨』する文化の下では、
この価値観は、その文化の固有の価値観とはなり得ないこと
となります。


これはいささか無理があると言わざるを得ません。


スポーツの世界で、
『ファイナリスト』という価値観があります。


たとえ、圧倒的な力量により、
優勝は間違いないと思われている人がいる競技種目でも、
その人が直接対決をして、
敗北を認めさせなければならないだけの力量がある人たちは、
敗者であっても十分尊敬に値する、という価値観です。


つまり、必ず直接対決をし、
雌雄を決することなくては、
その勝敗を決められないような場合、
たとえ敗者であろうとも、
尊敬の対象であるという価値観です。


日本人にとって、過去、この価値観はあまり強くなく、
『騎士道的』、または、
欧州封建制における君臣間の『契約』に根差すもの
と思われます。


ときに彼らは『契約』により戦場へ赴きます。
『契約』により、
前の戦争では、我が身を救ってくれた戦友にまでも、
手をかけねばならぬ事態に陥ります。


通常、『騎士道的な精神』と『契約』により、
これは履行されましたが、
相手の力量を直接知るだけに、
心に傷を残すものであったでしょう。


敵たりといえども、
『契約』により、その時、たまたま、『敵』、
となっただけなのですから、
尊敬できる敵はたくさんいたはずです。


従って、敬愛する『敵を篤く葬る』心は、
『一神教』や『君臨』の文化にも存在します。


中国的封建制度が
『天』と『天子』との信仰的結びつき、
『天子』と『諸侯』の半信仰的半世俗的結びつき、
に立脚するものであったとしても、
勝負の現場では、
多くの、心傷つく戦いがあったものと思われます。


この現象はいかなる文化の下であっても、
『争い』と『保身』がある限り存在します。
従って、この心は、
いかなる文化の下でも存在するものと思っておりました。


王敏さんは、これが中国にはない、
というので『驚嘆』した次第であります。


日本の君臣の結びつきは、
過去、現人神と称された『天皇』を頂点とした階層社会の中で、
多くは血縁により、宗教的ともいえるほど私的に結びつき、
戦国時代を除くと、形式的にはすべての時代でこれが貫かれています。


『百姓といえども二君を戴かず』という言葉があるくらいです。
従って、朝廷が意識されて以降、
『昨日の味方は今日の敵』となることは少なく、
『ファイナリスト』の価値観は、
日本で『強く』は育ちませんでした。
(もちろん他の文化と同様で、全くないわけではありませんが)


では、なぜ日本人は『敵を篤く葬る』のでしょうか。


これは、仏教の輪廻転生を、
民の統治に利用した政治体制に起因します。


世界中のどの国の民衆も、ほんの数百年前まで、
飢餓と共生していました。


日本も同様でした。


日本の政治体制は、
民衆の不満を政治に向けないようにするため、
仏教の輪廻転生を利用しました。


この生まれ変わるという価値観は
日本土着の宗教にも存在しますので
受け容れられ易かったのでしょう。


民衆は
『働けど働けど、わが暮らし楽にならず』
でありました。


しかし、これで諦められたり、
暴発されたりしては国が滅んでしまいます。


体制は民をこう諭しました。


懸命に働きなさい。


しかし、残念ながら、それでも
あなたの生活は生涯良くならないかもしれません。


しかし諦めてはいけません。


今のあなたが懸命に働いているのに、
生活が良くならないのは、
あなたの前世が悪かったからなのです。


今、懸命に働くことは
現世利益には繋がらないかもしれませんが、
来世は、この善行により、きっとよくなるはずです。


だから、諦めずに働きなさい。


他ならぬ、あなた自身の来世のためなのですから。


為政者は、これで、ずっとやってきたわけです。


ですから、生まれ変わりを感じる文化の中では、


現世の中では、
たまたま現世の利害対立により敵となった。


しかし、自分を脅かすほどの存在とあらば、
人間的にも立派で、人望もあろう。


ならば我との争いに敗れれば、泣く者もあろう。


我が直接手をかけねばならぬほどの者ならば、
さぞや魅力のある者であろうが、
その者の現世を我が手で断ち切ってしまったのだ。


せめて、来世でも立派に生まれ変わっておくれ。


そして,願わくは来世では味方同士でありたいものだ。


と考えるわけです。


蛇足ではありますが、
ここでは、戦場に赴き、人を殺める者全てを
人格者のように扱っています。


これなしに自らを鼓舞し、
人を切ることができるのは、
ただの殺人鬼であります。


ですから、戦場でのポジションを問わず、
全ての階級に所属したものが、
皆、立場なりに自分を正当化し、
このように考え及ぶのです。


針も馬も鰻も、我の現世利益のために
利用され、役立たされ、あるいは争い、
そして、この世から消え去っていったものたちだ
と感じています。


『現世では私の役に立ったのだから、良い転生を。
あるいは、何の因果か、現世では敵同士に生まれてしまったが、
あなたの死の上でしか、今の私はないのだから、
そういう意味で私の役に立ったのだから、これもまた良い転生を。』


と祈り、日本人は『敵も篤く葬る』のです。


それにつけても、広大な領地を群雄が割拠してきたあの中国で、
なぜ『敵を篤く葬る』という価値観が生まれなかったのか?


それこそ疑問で、にわかに信じがたく、
あなたの個性ではなく、
中国人全体に共通する思考なのであるとしたら、
その思考の成り立ちをご教授賜りたいとさえ思います。
小生の理屈も、
ここを論破しないと
矛盾を含むものとなってしまうことを承知しておりますので。


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残念ながら、一言の回答もありませんでした。


笑止、笑止!!