行行て たふれ伏とも 萩の原 | マニンゲンメンバーのブログ

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なすすべなき劇団「マニンゲンプロジェクト」のマニンゲンメンバーが綴るブログです

行行て 
たふれ伏とも 
萩の原

ゆきゆきて
たおれふすとも
はぎのはら


松尾芭蕉の弟子の曾良が芭蕉との旅の途中に読んだ一句。
※ここから先はアバウトな記憶と知識を基に、若干の想像も含めて書きます。


芭蕉との旅の途中に具合が悪くなった曾良。
しかし、芭蕉は旅を辞めるわけにはいかないし、曾良も自分が回復するまで旅を中断させる訳にはいかない。
だから、曾良は無理をしながらも旅を続けます。
そこで、曾良はこんな俳句を詠むんです。

行行て 
たふれ伏とも 
萩の原

このまま無理をしながら旅を続けて、倒れ伏したところが、死んだところが、旅の目的が達成されなくても、萩の花が咲いているような場所ならいい、と。
そーゆー志の覚悟をあらわした一句な訳です。
でも、曾良は旅の途中で死んでないはずですけど。
それはいいとして。
倒れ伏したところが萩の原どころか、どこかの道端、森の中、小汚ない宿かもしれない訳ですよ。
でも、曾良はどうなってもいいから、旅を続けようとした訳です。
この頃の旅は徒歩です。
日本をグルっと徒歩で旅する訳です。
そりゃあ、行く前には諸々覚悟はするでしょうが、旅を始めたときは、目的を達成する為に始めたはずです。
目的って何か知りませんが。
何でしょう…?日本の各地を回りながら句集を完成させることだったのか、何かは知りませんが、何か目的があったはずです。
でも、途中で旅そのものが目的になっていったと思うのです。

それでいいんだと思うわけです。
夢と言い替えて差し支えのない、何かの目的。
きっと誰しも何かあるはずです。
例えば子供の頃、プロ野球選手になりたかった子供がみんなプロ野球選手になれる訳じゃない。
ずっと「あぁ、プロ野球選手になりたかったなぁ…。昔はいいところまで言ったんだぜ俺。」と、飼い猫相手にぼやきながら、テレビの野球中継を見ているよりは、どこかで「プロ野球選手」ではなく、野球に関連した仕事とか社会人野球、草野球でもいいから野球を続けるとか、そういったものに変化させ、それを達成している人の方がなんかスカッとしてると言うかね。
それを人は妥協とかって呼ぶんでしょうが、ただの妥協ではなく、それがその人なりの萩の原なら、それでいいんだと思います。

志と
覚悟の先の
萩の原

要は松尾芭蕉の忍者説って面白いよね、ってことです。