1テモテ 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。



ギャング団のボスと言えばアル・カポネを思い浮かべます。


彼はシカゴを支配したマフィアのドンで、映画「アンタッチャブル」は私の好きな映画の一つです。


聖書にも「罪びとのかしら」を自称してはばからない人物がいました。それが使徒パウロです。


彼は確かにクリスチャンになる以前は、クリスチャンを迫害し、牢に入れ、死に至らせる者でした。


しかし、回心した後彼は命を捨てて、主に従い通しました。


世界伝道旅行に3度出て行き、その当時のローマ帝国のほぼ全土に福音を宣べ伝え、


多くの教会を立上げました。彼の書いた手紙は新約聖書の半分を占め、


彼によってキリスト教の真理が教理として確立しました。


その働きのため牢につながれ、殉教直前に弟子のテモテに書いた手紙の中で、


彼は「私は罪びとのかしらです。」と語っているのです。これが彼の自己意識の土台でした。


彼は真理を知り、証しと力を与えられ、全世界に伝道をし、豊かに用いられました。


しかし、神に近付き、神の光の中に近づけば近づくほど、自分の罪の醜さを意識していったのです。


これこそ、神を知った人の成熟の姿です。彼は神を知るごとに、ますます謙遜に成らざるをえませんでした。


そうして、「キリストがこの罪びとを救うために来てくださった。」という感謝に狂喜したのです。


自分の罪の深さを知る者だけが、神へ全てを捨てて、献身できるのです。