VOL 382: 炭水化物をとらない生活をしていたら、丸山健二の言葉、


血糖値とかにきをつかって、炭水化物を取らない生活をしていて、
肉ばっかり毎日食べてたら、

この前の血液検査でUric acid (尿酸)が 8.4だってさ。

その代わり中性脂肪なんかは普通だし、ちょっとLDLがたかいのでトータルコレステロールが232
と正常値の上限みたいな感じだ。

最近は日本の学界でもトータルコレステロールの上限値が210くらいから230くらいに
変えられたのがひろまったようなので、一様健康みたい。

それにしても尿酸を上げない食べ物ってみてたら、肉、魚介類、豆、野菜、おまけにカフェインと
全部いけないって書いてあるサイトもあって、なんじゃこりゃだ。


だからちょっと気をつかって今日の晩御飯はこんなもんだったよ。





でちょっと野菜を、





で最後は物足りないので、ちょっと




これでも最近はベンチプレス50kgあげれるようになったからちょっとは体健康なんじゃないかなあ、

情報がいろいろありすぎてなにをたべればいいのかちょっと考えをまとめ中。


● 丸山健二の言葉


大学生の頃丸山健二の本は良く読んでいたが、孤高の作家で長野かどっかの山の中で一人で
庭をつくっている写真かなにかを見たのを覚えている。

毎日読んでいる”いつも心に青雲を”っていうブログで田舎暮らしのことがとりあげられていて、
そこに ”田舎暮らしに殺されない法”(丸山健二)の引用で面白いのがあったので、僕も引用します。

なぜかというとそこには男の一生が詰まって書かれていると思うから。









これって会社勤めの人が脱サラしたときや、フィリピンに来て新しいことをしようとしている
人にあてはまると思うから。

厳しい言葉だ。






以下引用。
   
 (定年を迎えた団塊世代のあなたはこれまで)親に依存し、学歴に依存し、職場に依存し、社会に依存し、勝手に依存し、家庭に依存し、酒に依存し、経済的繁栄の時代に、依存しながら、くぐり抜けてきた数十年の間に自立の事実の機会をことごとく失い、単に自分に課せられた勉強や仕事を通してのみ知りえる現実の厳しさだけを認識しているばかりで、本当のあなたは、自身からも、世間からも、逃げて逃げて逃げまくってきたのではないでしょうか。
     *      *      *
 職場におけるあなたは、頑張ってきたわけでも、闘ってきたわけではありません。あなたは、単に忍従と屈辱の日々に自分を慣らすことのみに精力を費やしてきたというだけなのです。つまり、あなたがくぐりぬけてきたのは、逃げて逃げて逃げまくってきた数十年間であって、決してそれ以上ではなくその醜い逃げ癖は、いまだに骨の髄まで染みついているのです。

 職場における地位や、世間的な評価といったものを誇りや自尊心の土台にし、一人前のおとなの男のふりはしているものの、実際には何のための人生であったのか疑わざるを得ない木偶の坊であり、自分の始末さえもつけられないガキなのです。
 そんなあなたのことを一番よくわかっているのは、たぶんあなたの連れ合いでしょう。
     *      *      *
 もしもあなたが田舎への移住の目的のなかに、人と人との温かい触れ合いや優しい交流なるものを、漠然と、あるいははっきりと加えているのだとしたら、それはすぐさま削除すべきです。
 そして、そんな情緒的に過ぎることを求めたがる、そんな甘ったれた愛に飢えているあなた自身について、自分がどんな男になってしまっているかについて、つくづく考えてみてください。
     *      *      *
 定年による職場からの離脱によって初めておのれのすべてでもあるかのごとき肩書や学歴や職歴といった尺度が世間にはほとんど通用しないことを悟り、それでも辛うじて残っている過剰な自尊心をひけらかしながら同じ待遇による次の職場を捜しても相手にしてくれる雇用主はひとりもおらず、現役を維持している友人たちが友人に思えなくなり、そんなこんなを世間の冷たさのひと言で片づけ、さかんにため息を洩らしながら、都会における非情な暮らしから脱出さえすれば傷ついた心がたちまち癒されるのではないかという身勝手な幻想を抱き、牧歌的な美しい風景を胸に抱き、素朴な人々との人間らしい接触を夢見ているうちはかまわないのですが、あなたはそれを突然実行に移そうとしています。ろくに確かめもしないで。

 そんなおめでたいあなた方の心理を巧みに突き、煽って商売に結びつけようとする、狡猾な手合いがごまんといます。かれらにしてみれば、幻想の世代は実に落としやすい恰好のカモに見えてならないのでしょう。
     *      *      *
 ある日、紋切り型の労い(ねぎらい)の言葉と、数日のうちに枯れてしまう花束と、長年にわたってこけにされてきたにしてはあまりにも安すぎる退職金を与えられて、明日から自分の才覚と采配だけで生きてゆかねばならない厳しい状況に追い込まれたのです。

 あなたがうろたえるのも無理はありません。常に世話を焼いてもらって生きてきた子どもの精神のまま、自身を鍛える機会も得られないまま、いきなり老後の世界へ引きずり込まれてしまったのですから、迷子のごとき無様な反応を示すしかないのかもしれません。あとはもう、金と健康と連れ合いの愛情にしか頼れないと思い詰めてしまうのも当然の成り行きでしょう。

 しかし、あなたは強力な助っ人の存在を忘れているのです。
 それは、あなた自身です。
 
 あなたは確かに絵に描いたような強者ではないかもしれません。でも、あなたが思い込んでいるほどの弱者でもないはずです。おのれのすべてを他者に預け、委ねて生きてきた長年の付けをきれいに払いさえすれば、そこから本来在るべき姿の本物のあなたが浮上してくるに違いないのです。
 そうした方向に持ってゆくことこそが、本当の第二の人生なのです。
 (引用終わり)
     






歳をとってしまってから強力な助っ人の存在、自分自身をみつけられるかどうかはわからない。

だったらもっと早いうちからすればいいのに、と思うのは自分だけだろうか。

特にここのところでしょ、ずきっとくるのはね、


以下引用
定年による職場からの離脱によって初めておのれのすべてでもあるかのごとき肩書や学歴や職歴といった尺度が世間にはほとんど通用しないことを悟り、それでも辛うじて残っている過剰な自尊心をひけらかしながら同じ待遇による次の職場を捜しても相手にしてくれる雇用主はひとりもおらず、現役を維持している友人たちが友人に思えなくなり、そんなこんなを世間の冷たさのひと言で片づけ、さかんにため息を洩らしながら、都会における非情な暮らしから脱出さえすれば傷ついた心がたちまち癒されるのではないかという身勝手な幻想を抱き、

引用終わり

でっ、考えたのは肩書や会社や学歴が通用しない世間にでてしまったとき、人はどのようにして心豊かに暮らして
いけるのか、退職金をうまく運用して、病気をせず残された人生の数十年を波風なくすごして逃げ切りたい、と
思うのが大半の人の考えではないのか?

でも世の中には歳をいくらとっていても、他の人のために役に立つものをあたえられるということができれば、
その人は社会から認められる、または自分自身の存在を社会の中で意味のあると感じて生きていられる。
その唯一の手段だろうと思う。

別に歳をとってリタイアしたときだけのことだけじゃない。

たとえば30歳で会社をやめて何にも属さない身分になると突然不安が襲う。

周りの人は自分を空気のように見たり接したりする。

そういうつもりはまったくないのだが、会社を辞めていない人にはやめた人の気持ちが
大きく変わってしまったことが感じられないから残酷な態度を取る。

自分の仕事に関係ない人はもう関係なくなるのは当然だ。

つまりなにかを与えられない人は社会的に0になる。

それはなにかを与えられるようになるまで0は0のままで続く。

それは受動的に会社を与えられているうちは仕事をするということによってなにかを社会に貢献しているので
そういう気にはならない。

それが退職したり自分で会社をやめたりして、肩書がなくなるとある日突然他人が自分を相手にして
くれなくなるということに気がついて、世間は冷たい、とか言う風に考えてしまう。

ほらっ、昔小津安二郎じゃなくて黒澤明の”生きる”って名作があったけど、
あんな感じ、

最後に市役所をやめた老人がみんなのために公園を作るって話。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B_(%E6%98%A0%E7%94%BB)









当たり前だが誰でもそういう状況になれば一度は世間は冷たい、とつぶやくのだ。

60歳になっても70歳になっても会社の創業者や社長が楽しそうなのは、それはそれで
会社という組織をつくりあげることによって他人に仕事や給料や楽しみを与えているのだ。

そりゃ、それは普通の人よりつらいことも人一倍あるけど、自分で人生をつくっているから
しょうがない生みの苦しみだって。


貴方がただ会社に職を与えられる側であるならいくら部長でも専務になろうとも会社を辞めれば
ただの老人だ。
すべての社会に貢献するという術が失われ自分ひとりになるから。

Happy cream puffさんと話をしていると僕には彼の言っていること、その一人で世間を相手に
商売をしていく苦しみ、孤独がよくわかるのだ。(いや彼だけではなく周りの独立している
経営者の方と話すと別に何にも言わなくてもわかる。)

厳しいよ、世間を相手にするのって、社長一人を喜ばしてればいいんじゃなくて、
知らない他人が喜んでくれるかどうかだけが結果で判断される。自分の人生や家族の
未来もかかってくる。







それは誰もがいつかは通る道なのだが、恵まれた学校環境や会社環境でそういう目にまだあわずに
経済的に勝ち組のままいく人も沢山いれば、そういううまい境遇にありつけずに苦労している
人もマニラにはたくさんいる。

Happy cream puffさんの偉い点は真正面から他人=社会においしいものを提供する、とか人を雇用する
ということでなにかを与え続けていることを目標においている(他にもマニラで起業している仲間たちは皆一緒だけど)ということだ。

一人よがりでは社会とつながっているとはいえないし、生計も立てていけない。

一人でもいいから喜んでくれる人がいればいい(それは商売とは限らないけど)

そしてそれをすることによって生計をたてていけるならこんなに素晴らしいことは
ないんじゃないか。

実は会社に属さずやっている人はみんな同じ気持ちだというのが僕にはよーくわかっている。

会社というものにおんぶに抱っこでそれがある日突然なくなってしまって自分の存在価値さえも
消滅するようなことが起きるないために皆自分で自立して生きていこうよってやっている。

田舎にいったって何かが変わるわけじゃないよ、自立してるかどうか、社会に受動的ではなく、
能動的に主体的に関わって生きているかだけが問題だよって。
丸山健二は多分そういうことをいいたいんだと思う。


ただこの文章は自分が思っていてはっきりわからなかったことをあまりにもずばりといってくれたので、
ちょっと感動してしまったのだ。