昨夜UPしたVOL346について、自分で読み返して意味がよくわからないところがたくさんあったので、
も一度書き直してUPし直しました。

よく自分でもこんなわけのわからない文章をUPするなと感心しました。


以後書き直したもの、

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VOL 346

● 焼肉をたべる彼の横顔
 

今週あるレストランに食事をしに知人と入った。
すると知合いの欧米人のエグゼクティブがちょっと小太りの若いフィリピン人の
女の子と一緒に焼き肉を食べていた。

やあやあお久しぶりですね、と挨拶をする。
連れがいたのであまり長くは話さなかったが、彼はアジアの米系の大企業のエグゼクティブを転々と
転職し高級とりで本国に資産がたっぷりある。
フィリピンでも昔は自分の会社をおこしていたはずだ。

子供や孫もいて悠々自適だが、もうそろそろ年が年なので
そろそろここらでリタイアしても良いころだ。
フィリピンで仕事をしようが遊ぼうが何の束縛もないはず。
仕事中毒の彼は最近仕事をやめてしばらくこの地にとどまっているようだ。

そういうなにも仕事のない毎日が彼にとって望むべく状態なのかどうかは知る由もないが、
失職という状態は普通の人にとってあまり経済的にも心の準備のないうちに突然くる。

彼のように明日の心配もなく仕事を悠々とリタイヤできる人って万人に一人くらいだろう。
彼は楽しそうに女の子と話していた。


人が行う仕事にはその人自身の小さな分身とその影が乗り移っていると思う。


それはサラリーマンにとっても事業経営者にとっても度合いは違えど同じだ。

経営者にとって一つ一つの事業というのは自分の考えとその実現のために考えつくしたアイデアと
労力とその人と他人との信頼関係の歴史やらが詰まっているものなのでそのできあがった事業には
彼の分身が乗り移るのだ。

その分身はたとえ小さくても分身が傷つけられればその人自身が傷つくし、事業が褒められれば
うれしい。

他人のその事業への評価は自分への評価だ。
事業の経済的な成功や失敗は経営者本人を必要以上に喜ばせたり、奢らせたり、
苦悩に陥らせたりする。
そして事業にまつわるお金とは、分身の影を何倍にも拡大して自分自身の心の中に
映し出す投影機だ。

お店をやっている人なら当然自分のお店の評判は自分に対しての評判として受取るし、
商売が儲かっていれば有頂天になり、赤字なら自らを否定されている気になり反省する。

前述の彼が焼肉を食べながら若い娘に向ける笑顔をみていて感じたのは、
もし自分の仕事がなくなってやることがなくなった次の日の朝には自分自身の不安定さや喜びや苦しみを
数倍にして自身に投影してくれた’分身とその影’が急にいなくなってしまった
喪失感のような感情が押し寄せてくるのだろうなということ。

これはリタイアすればそうだし、会社組織から離れてもそうだ。

そして仕事に宿っていた自分の心を映し出す分身がいなくなってしまうのと
同時に社会の中で自分の存在を相対的に生み出していた他人の自分への認識
という土台が失われてしまう。

自分が属していた組織がなくなると自分と他者の関係は個人対個人だけになる。

そしてその人の人となりの魅力だけが他人を自分に関連づける土台として残る。

従来日本の退職組が大企業をやめてただのおじさんになってしまったときに
家庭菜園と健康のためのウオーキングの老人というレッテルで一まとめに
よばれてしまう理由そこにある。そういった自分を表現して周りの人や
コミュニティーに関係性を構築してこなかったつけがその孤独さの
根本にあるが、これは個人だけの問題ではなくコミュニティの消滅という
別の理由によるものだが。

組織という共同体の中にどっぷりつかっていれば自身の分身の光と影を
仕事や事業の上に映し出しておける。
それは自分のちっぽけなプライドと存在感をつなぎとめて置くことであり、
あとは家庭の中の自分という役割とバランスさえきっちりととっておけば
くずれそうなプライドというものをなんとか暮らしの中であいまいにしておける。


個人の魅力は自分自身を表現する繰り返しの作業と意思のみから生み出される。


他人に対する表現というものはもって生まれたもので無意識だろうと、意識的だろう
どちらでもかまわないが、繰り返してそれを行おうとする意思の元でそれが行われる
ほうがいいに決まっている。

それを意識的に行っていない定年まじかのおじさんは会社の中でもすぐわかる。
そういう人はあまり顔に表情がない。


そういう人が定年すると奥さんに離婚をつきつけられるタイプなのはいうまでもない。

起業家がエネルギッシュでバイタリティーがあるというステレオタイプは必然だ。

自分の属する組織の看板を無意識にしょって仕事上の他者と接している人達は、
経営者のように常に外に向かって働きかけて自らの会社を発展させてきた人に比べ
関係性を築くために表現しなければいけないという必然性が低い。

別に無理に他人との関係性を築かなくても、それについて鈍感であっても
明日の生活の糧に事欠くことはない。

だからまともに自分で事業を大きくした人は、他人の仕事上での他人に対する態度や
言動を観察するし、その人が他人の存在の存在をどう扱うっているか
ということに非常にシビアでセンシティブだ。

センシティブの意味はその人が人を人としてみていて、尊厳を持ってフェアに
扱っているか、ということに気付いており、自分の他人に対する言動や行動も
注意深く律し選んで行っているということ。

元はやり手のエグゼクティブの彼であっても今はフィリピンの娘と一緒に
焼肉を食べているおじいちゃんだし、家庭菜園でシャベルを持つ老人や
寝たきりになってしまう人に皆なってしまう。
事業や仕事や組織という自分の自信を増幅するディバイスが消えて人自身の本来の姿
に戻り一人の人として振舞うしかないということを理解して
若いころから他者一人一人の存在に対して敬意を払い、個人としてフェアに接し
立ち振って人間として関係性を築いてこれた人生かどうか?
それが人間性というものだ。

事業や属する組織の経済的な反映や成功はそこに宿るその人の分身のみならず本人までをも
鈍感にさせ、勘違いさせ、一人の人間として他人に対して接するということを忘れさせる。
逆に事業や組織の失敗が分身を萎縮させ、本人自身の存在の威厳を著しく不安にさせたりもする。

外にでていて僕が感じるのは、仕事というフィルターを通すと
人のずるいところや他人に対する心の大きさなどが拡大されて見えてくる。
事業を自分でやっている人にとって自分自身の事業に流れるお金はただの数字ではなく
血の通う温度を持ったもので、商売の相手を選ぶということは生き抜いていくためには不可欠だ。
商売そのものうんぬんよりもまず最初にその人がどういう人かということ。

その人をみてその人の他人に対する普段の対応でその人の裏をさりげなく見つめる。
会社とか組織を離れてその人とお友達に気軽に付き合えるかなという単純だが
本質的な問いかけをする。
あくまでもビジネスだからお金の損得がだけが問題だよという意見もあるにはあるが、
短期的ではなく長い目でみればその人が付き合うに値すべき人かどうかの判断の結果は
最終的に自分に全て返ってくる。

人と人のつながりだけが実はこの世の仕事や商売に必要なものの全て。

人それぞれの価値を認めて、それを仕事を通じて表現していくこと。

自分は他人に対してフェアに接しているだろうか?
奢ったりしていないだろうか?
関係性を保つために表現する努力を十分しているだろうか?

焼肉を食いながら楽しそうに話しているそのおじさんの楽しそうな横顔を見ながらそう思った。