● それぞれの価値観で、


最近のWork Outは週に3度だ。


最近あまり書く気がしないのはなんでだろうと考えたら、


こういう例えが浮かんだ。
岸から川を見ているといろいろ描くことはできるが、
川の流れに自らはいってしまうと川のことを書くどころじゃなくなる。
 


自分は自分なりの方向性をもって毎日を暮らしているつもりだ。
しかし毎日いろいろな次元の問題が起こる。


人はみなそれぞれなりに自分が信じた方向で自らの家族なり個人が幸せ(あいまいな観念だけど)

とよばれる状態を目指して毎日生きている。








幸せと呼ばれるものは確固とした決まった状態でないんだけど、たとえばフィリピン人の
オフィスワーカーだったら給料はこれくらいで、家族がいて、休日はこうしたい、
家は持ちたいし、車も持ちたいみたいな平均的な状態ってたしかにある。
で、そのときにそれはその人の状態に応じた問題がある。


問題はあるけど、自分の思った良いと思う方向に向けてとにかく毎日櫓をこぎつづけるわけだ。
それが間違った方向に向かっていてもしばらくは気がつかなかったり、問題が大きすぎたり
するとちょっと間違ってたのかな、と立ち止まって考えたりもする。


間違っていたら正しい方向に進路を変えてやればいいのだが、


僕らが直面する問題のうち解決するためには、自分の理解や経験のレベルが問題の発生した次元と同じでは難しい。それより高くないと問題って解決できないのだ。


例えば仕事の問題などで、他人の問題について見聞きしたときにそれが自分にとって
解決の方法が見えるようなものなら、その問題の本質は自分の問題解決レベルより低い。
ある人が処理できる問題が他人にとっては簡単だったり難しかったりするのはそのせいだ。




Beyond Book Solid っていう本にそれが詳しく書いてある。
http://www.amazon.com/Beyond-Booked-Solid-Business-Inside/dp/0470174366














同じ問題でも人によってその難易度が違うのは、同じ場所で生きている人同士なのにそれぞれやはり見ている風景は違うように見えるのと似ている。
それは世界観の違いであるし、幸せのあり方だって人それぞれだ。


幸せというのはある条件がそろったときに自分は幸せだ、と感じるべきのような感じがするが、

それは絶対的ではなく、相対的な感覚に近い。
幸せな条件がそろっても、周りの人との比較によって幸せに感じたり感じなかったりする。


でも本当にどこまでいったら幸せと感じられるのか、それは止まっている在る状態をいうのではなくて、

動いている状態でどちらに向かって進んでいるかだ。


それは希望と呼ばれる。


チルチルミチルの幸せの青い鳥を探す物語はそういうことをいってるんだろう。


他の場所を探さなくても今いるその自分自身に幸せってあるのだと、自分が生きている
こと、ある方向に向かって動いていること、希望があるかどうかなのだろう。


日本人はいちようGDPなんかも世界のうちでは高いのだから、給料とか物質的な
点では幸せの条件はそろっているのだが、みな日本人は幸せかといわれればそういうわけでもないし。

幸せとは周りの人との主観的な相対的な比較(ややこしいな)なんだろうか?


人生って人それぞれ多様だ。

幸せに感じるか、他人と比較して惨めに感じるか?


自分の生き方これでいいっていいきれるかどうかにかかっているし、
それはもって生まれついた能力のような気がする。



それは言い換えれば希望を持って生きることができるか、

希望がなくても生きていけるのか。




なぜ日本人は自殺してフィリピン人は自殺しないか、


それは多くの日本人がどこかを目指して歩いていけばいいのか

行く先を見つけられないからだ。




フィリピン人は明日朝昼晩のご飯をたべることにむけてなにかやらなければ

ならない。


行く先を考える必要なんてない。



海外にいって、家族のために仕送りする。それだけを考えればいい。



フィリピンで暮らして生計を立てている日本人と交わっているとその人たちは
多様性を持った生き方をしている人ばかりだ。







それは日本的な幸せな基準から外れた生き方をしている。
それは規格の住宅ではなく、オーダーメードの住宅なんだろう。


オーダーメードがそれは幸せじゃないわけじゃない。
それでいいんだ、といいきれるかどうかが尺度だ。

自分ではもうお手本にできる他人の生き方というのがなくなっちゃった感じだ。
さびしくても、まねできなくても完全にオリジナルな生き方だから
どうしようもない。



学校にいたときは簡単だった。
問題にはかならず解答があった。


回答をさがすのではなく、動いていく自分の方向を感じながら、方向修正を
していく。

希望というもの持つ人には完璧な満足の状態などない。


なぜなら停まってしまった状態には希望など必要ない、満足があればいい。


僕はここにいるのではなく、動いている自分を感じるしかない。


いつものように抽象的な脈らくのない文章になっちゃった。


そうこういっているうちにBo's Coffee Clubでの夜は更けていくし、ここのIce LATEは
妙に苦い。