多少は俯瞰的に見ることができたように思います。
各章、さらにその章を作り上げている小さいセクションそれぞれは、
となりのセクションとも、中盤過ぎまでは殆どリンクしているわけではないし、
また、ある時は過去、ある時は現在、そしてその舞台もメインとなる人物も
一定ではない。
だから、どこかに、あるいは誰かの視点に自分を置かないと理解には程遠い
お話だったのだとようやく感じている次第です。
多分ラグトーリンの視点で、登場人物が生きているこの宇宙の時間と空間を
箱庭を眺めるように、高いところから見ると分かりやすいのかもしれません。
私の好きな「百億の昼と千億の夜」で描かれていた、無常感とか輪廻転生の
ような仏教的な要素も多分に含んでいる気がします。
ラグトーリンやマーリーのする行為(一つの星や人々をなかったものにして
しまうことなど)は、その時間、その場所においての短絡的な正義ということではなく
もっと大きな時間の流れを見据えたものであるということなのですね。
先々の安定のための修正なので、短い目で見れば、大変に残酷なものに思えます。
長い目で見たその先の安定のために、犠牲となるものがあまりにも大きすぎるので。
マーリー2はもうマーリー2ではなくエロキュスとして永遠に孤独のまま
でも彼女の役割を果たすために時空の中に存在していかなくてはならない。
この部分は「スターレッド」のエルグや「百億・千億」の阿修羅の
選択した状況に似ています。運命の流れに身を任せていくような・・・。
その役割が明確であるほど、その人の選択肢は限りがあるような
そんな印象をちました。
「すべて定め」という「百億・千億」での阿修羅の人生観をもまた思い出します。
点在していた小さなモザイクが、物語の終盤が近づくにつれ一つの
壮大な物語になっていく様は、ようやくあらすじ把握してから改めて
読み直してはじめて感じることができた愚鈍な私ですが、
このお話の緻密さ、繊細さにただただ脱帽するばかりです。
結局のところ、ラグトーリンが何者なのかは、作中では明確にされていませんが
このマーリーたちの属していた宇宙全体を把握し、大まかな流れを
形作っていたことを考えると、これも「百億・千億」からの記憶ですが
あの中にも出てきた「転輪王」にあたるものではなかったかと今は思います。
絵柄も、そして流れる音楽・・・それは音として聞こえるわけではないけれど
ちゃんと感じることができる・・・もいずれも美しい。
でもそういった美的なものだけではなく、この物語自体の理解に近付けたことを
嬉しく思います。面倒な作業でしたが、やってみて良かったと思います。
久々の達成感~♪
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