スペイン 52 | MARIA MANIATICA

MARIA MANIATICA

ASI ES LA VIDA.

19893月のこと


最終レベルである、2B Normal
で勉強していました。

でもこの時期の手紙もほとんど残っていないので、どんなことがあったのか
日々のことは覚えていない。

どの国の人にも節目の時期だったようで、12月の頃と同じように
帰国を目前にした人が私を含めてたくさんいました。
またあの12月と同じように、別れを惜しんでよく泣いた。

2月の時点で帰っていたら、もう少し落ち着いた気持ちで迎えられたかもしれないけれど
あまりにもスペインとサラマンカに浸りすぎてしまって、もう何も考えられなくなって
しまったのは手紙にもあるとおりです。

ドイツの友人、エイケ・スサナ・ヨハナ・ルディ達からは
「いつドイツに来るの~?」と
何度も手紙をもらっていました。
彼らとはベルリンの壁について本当によく話していたから、
帰国の時には絶対に自分のところに寄り、
壁を見てから帰るようにと
何度も言われていた。(本気じゃなかっただろうけどね)

私の中でも、次にヨーロッパに来るとしてもスペインがメインになるだろうし
ドイツに行く機会はもうこの時しかないかも、という思いもありました。

そうやって漠然とドイツに行こうと決めたものの、チケットを買ったのはわずか1日前。
1日でも長くスペインに居たい気持ちと、もう決断しなくては、という思いとの
葛藤の中で
最後の最後まで迷った上でのことでした。
みんなには多分行く・・と手紙を出してあったものの、

やはり具体的な知らせはしないままでした。

試験結果は、SOBLESALIENTE(優)でした。
5ヶ月間の間、特に1Bのときの悲惨な試験結果を考えると、
自分なりの最高の結果が出せ
本当に我ながらよくやったと思いました。
同時期に通っていた西文タイプも同様の結果でうれしかった。
でも、それよりもサラマンカを出る悲しみのほうがずっと強かった。
夜9時発のバスでマドリッドへ向けて出発する予定で、それまでの時間を
後片付け、手紙書き、挨拶まわりに費やしました。

最後に残ったのが大好きなマリサへの手紙。
私のスペイン語力では彼女への感謝と愛情は伝えられない。
彼女の名前だけを小さい文字でカードいっぱいに「MARISA MARISA・・・」と
涙ながらに
何十個も書きました。
彼女のピソは、バスのテルミナルのすぐ前だったので、出発直前までそこですごし
最後、皆に見送ってもらいました。マドリッドまで3時間以上、泣きっぱなし。


その泣きはらした顔で、いつものオスタルに着いたのは、午前1時近く。
前日に予約していたものの、遅い到着にかなり不機嫌な顔で迎えられ
私の気持ちはますますシュリンクしてしまいました。

でも、このオスタルは、私の思い出と涙をいっぱい置いてきたところ。
サラマンカの学校とステイ先を決めたとき
アリカンテへのはじめての一人旅のとき
北スペインの長い旅行が終わったとき
そして、ついにスペインを出てドイツに向かうこのとき
私のスペインでの、大きな旅の拠点はいつもこのオスタルでした。
毎回、抱えきれないほどの色々な想いを持って泊ってた。

本当に切ないですね。

翌日、いよいよドイツへのあてのない出発。
コロンビア国籍の「AVIANCA航空」の飛行機。
マドリッドのバラハス空港からフランクフルトまで、20000ペセタでした。