ちょうど20年前の今日、11月9日東ドイツ政府が
東ドイツ市民に対し旅行自由化を発表した日です。
このことにより、翌日11月10日から、実質的に意味を
持たなくなった冷戦の象徴であるベルリンの壁が、
東西通行の自由に狂喜した東西市民によって破壊される
ことになりました。
(誤報道であったとかいろいろありますがここでは省略します)
その11月9,10日からさかのぼること約半年前の89年4月、
私はスペインからの帰り道、仲の良かったドイツ人たちを
訪ねて、当時の西ドイツのWORMSという町にいました。
当時の私は社会主義国家に興味があり、ベルリンの壁もまた
興味の対象の一つでした。
スペインで私がドイツ人たちにベルリンの壁のことを聞くと、
みななんでそんなこと知ってるの?と一様に驚くと
同時に、誰もが熱くこの壁について語ってくれたものでした。
そんなこともあり、ドイツの友人たちがベルリンの壁を見る
機会を作ってくれ、私は1週間ほど当時の西ベルリンで
過ごすことができました。
西ドイツから友人の車で行きましたが、
東独・西独の国境通過はほぼノーチェックに近い
ほかのヨーロッパ諸国と全く異なり、銃を持った
たくさんの兵士たちに囲まれて行われ、それは
緊張感あふれる厳しいものでした。
その時に友人が
「fue un pais・・・かつては一つの国だったのに」と
言った言葉は今も忘れられません。
東ドイツの入国スタンプ 4月16日のことでした。
牧歌的でのどかな東ドイツのまっすぐに続く道を
ひたすら走り続けましたが、国外の車が止まって
良い場所というところが途中何か所あるだけで
他では、たとえ事故があろうと何があろうと一切
停まってはいけない、とのことでした。
一切、東ドイツ国民と接触することが禁じられて
いたのです。
西ベルリンは、整然と美しく、近代的な建物と
緑あふれる地域も多数あり、それはそれは美しい
町でした。
でも私には何だか作り物のように見えて仕方なかった。
そしていよいよベルリンの壁との対面。
あれは衝撃的でしたね。
言葉では言い尽くせないけど・・・。
たとえば、これは西ベルリンからの写真です。
西側からは壁ぎりぎりまで近付けます。
が、向こうが差に見える東ベルリンの壁は真っ白。
これは壁を超えられなかった人々の墓標↓
当時書いた絵ハガキ。
日本で通っていたスペイン語学校あてに出したもの。
延々絵はがき3枚にその当時の印象をつづってました。
もう数カ月日本語をほとんど使っておらず、
スペイン語の方が楽にかけた時期。
西ベルリンには、たくさんの記念館もあり、中には
大戦時やアウシュビッツの映像をひたすら流している
ものもあり、かなりヘビーなものでした。
それでも、社会主義国家を見てみたいという気持ちは
変わらず、ひとりで東ベルリンに行くことになりました。
ドイツ人の友人は、ビザだったか何かを持っておらず一緒に
行くことができなかったので、こんな迷子札を作ってくれました。
「ここに電話してください(あるいはかけたい、か?」と
西ベルリンのアパートのナンバーが書いてある。
これは、基本会話集?
スペインで知り合ったので、左がスペイン語、
右がドイツ語になってます。
本当は歩いてチェックポイントチャーリーから
入りたかったのですが、前日、この近くの
壁についての記念館で、またまた恐ろしい
資料を見た後で、同じことが今ここで起こるはずも
ないのに、どうしても怖くて決心がつかず、
結局地下鉄で入国することになりました。
これがチェックポイントチャーリー。
写真では何でもないけれども、私にとっては
緊張感あふれる何とも言えない怖い場所に見えた。
ブランデンブルグ門を、東ベルリンから見る、の図。
東側ではここまでが壁に近づける限界。
東ベルリンの街角。すべて同じ車。
ラビットと聞いた気がしたけど、この前新聞で
トラビ?だったか…とにかく違う名前だったことを知った。
何とも重苦しい空気を感じて、かなりしんどかったです。
西側のものもいろいろ売られていて、意外と恵まれている?
と思ったけれども、実はそれは外貨でしか買えないものだった。
だから、街中で東ドイツマルクと西ドイツマルクを16対1で
両替しないか、などとんでもない比率の外貨交換を
たびたびそっと申し出されました。
当時のドイツマルク。
上が東ドイツマルク、下が西ドイツマルク。
材質が全然違います。1マルク約75円の時代。
実は、東ドイツマルクは余ったらまた両替してくるべきもので、
持ち出し厳禁だったということは、西側に戻ってから聞いたこと。
何も買うものがなくて、ほとんど残した状態で持ち帰ってしまった。
今は記念ですが、ドイツ人たちには「ひええ、やばい、
信じられない!」と言われました。
まあ、無知ゆえですから仕方ないかな~、と。
これは西ベルリンの友人のアパート。
ここで過ごした約1週間。なんともね~。
最上階の部屋で、前にもアパートがあるものの、少し
目線を外すと昔のフランス映画にある屋根裏からの
ながめのようにベルリン市街が遠くまで見渡せて
それは美しかった。
でも、なんだかこの時の友人は、共通言語である
スペイン語を彼がすっかり忘れていたこともあり、
いろいろ意思の疎通に問題が多数出てきて、結局気まずく
なってしまって、それきり。
本当に年齢も性別を超えたいい友達だったのに、
これは今でも心残りです。
これは、このアパートをルームシェアリングしていた
19歳のドイツ人の女の子の作ってくれたラタトイユ。
私がWORMSに戻る前日に、お別れパーティーで。
東ドイツ出国のスタンプ。1989年4月23日。
見知らぬドイツ人の女の子の車に乗って、
(一緒に旅するシステムがある)泣く泣く帰ってきた。
ドイツにこんなに長くいたのは、実は、オープンチケット
だったため、帰りの切符がいくら待ってもとれなかったことが
原因です。
ほんの少し、何人かの友人と久しぶりに会って、と思っていた
だけのことなのに、約3週間、みなさんのご厚意に甘えて
ドイツで過ごしてしまった。
こんな話をすると、ラッキーだったね、いい経験だったね、と
言われることが多いのですが、私にとっては何ともいえず
苦しい3週間でありました。
私が今でもスペインが好きなのは、スペインで知り合った
友人たちの「愛」ゆえだとつくづくく思います。
ベルリンから戻って、私はまだスペインにいた、やはり仲良し
だった別のドイツ人に「ベルリンは美しい街だけれども、
私にはうその塊のように見える」と書いたところ、彼からの
返事には「君の言うとおり、ベルリンは嘘で固められた街だ。
僕は祖国の統一を心から祈っている」ということが書かれていて、
私の印象は間違っていなかったんだな、と思いました。
そしてその半年後に、ベルリンの壁崩となったわけです。
あの時友人になった、私よりずっと年若い子たちも誰もが、
真剣に過ぎ去った大戦のことを考えており、同じ戦争を
潜り抜けた日本でありながら、戦争のことなど考えることも
ほとんどない、自分たち日本の若者との、この温度差は
何なのだろうとつくづく考えたものでした。
だから、あの20年前の壁の崩壊の日の、友人たちの喜びは
どれほどのものだったかと、私も本当にうれしく聞いたもの
でした。
もうあれから20年。
みんなどうしているだろうか・・・。
ドイツもまた、私にとっては忘れ難い素晴らしい国ですが、
こちらはスペインと比べるとかなりビターな思い出です。
いつも以上の長文失礼しました。
11月10日
車についての質問をいただいたので
とにかく自動車が写っているものを
追加してみました!
たぶん、マインツの街角。
こちらは友人の実家のあるヴーディゲンと
いう街。右の赤いのはアウディかな?
ワーゲン以外はちょっと
わかりづらいですね~。

















