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☆美剣雷覇☆公式ブログ 『ならぬものはならぬ』

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近畿日本鉄道は座席でタバコを吸える喫煙席がある特急列車の運行を1月いっぱいで終了することを発表しました。

近鉄で唯一の喫煙席のある12200系スナックカーは80000系「ひのとり」の導入により、2020年度末までに特急の運用から外れるそうです。

子どもの頃から近鉄を利用しているだけに、スナックカーは数えきれないくらい乗ったことがあります。まぁ、特急を利用するときにスナックカーやったらハズレ感がありましたけどね(苦笑)。
ただ、もうすぐ乗れなくなると思うと寂しくはありますね。

最後は12200系の写真で締めさせていただきます。




遅くなりましたが、
新年あけましておめでとうございます。

どうも、美剣です。

野球ブログは小まめに更新していますけど、当ブログはなかなか更新できずにいますね(笑)。まぁ、不定期になりますが、頑張って更新していきますので、これからもよろしくお願いします。

さて、新年一発目は何を書こうか考えた結果、個人的に歴史上の人物である板垣退助の生誕の地のことをやっていこうと思います。

まずは板垣退助を簡単に紹介すると、板垣退助は土佐の上士である乾家に生まれました。乾退助は武力倒幕を主張して薩摩藩と密約を締結しました。戊辰戦争では武田家家臣の板垣氏の末裔である退助は板垣姓にしました。甲州で新選組を破ると、会津も落としました。
板垣退助は明治政府に入るも征韓論論争に敗れて下野すると、自由民権運動を起こしました。そのあと自由党総理になりました。岐阜での遊説中に襲われたときに「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った言葉が「板垣死すとも自由は死せず」というので有名ですよね。

板垣退助は高知城下中島町(現高知市本町通2丁目)で生まれました。板垣退助の生誕の地には石碑が建っています。
板垣退助は後藤象二郎と仲が良かったみたいです。子どもの頃の板垣退助は喧嘩ばかりしていたそうです。便所にお札を捨てるなど、迷信を信じない現実主義だったエピソードもあります。

高知城には板垣退助の銅像があります。

本当に尊敬している歴史上の人物なので、銅像を見れただけでも本当に嬉しかったです。

また、板垣退助ゆかりの地を紹介したいと思います。


新選組の近藤勇と土方歳三の最後の別れとなった地である流山。流山には流山鉄道が運行されています。

こちらが流鉄の車両である5000形です。元西武の車両です。
流鉄は各編成ごとに愛称がついています。こちらの車両は“流星”という愛称があります。

赤色の車両は“あかぎ”という愛称があります。

黄緑色の車両は“若葉”の愛称があります。

黄色の車両は“なの花”という愛称があります。

他にもピンク色の“さくら”という愛称がある車両もあります。


こちらは流鉄の流山駅です。流山駅は第2回関東駅百選に選定されています。なかなか良い雰囲気のある駅ですよね。

また流鉄を利用したいと思います。

どうも!
美剣雷覇です。


前回のブログでなるべく早く更新すると書いておきながら2ヶ月以上経ちました。なかなか更新できず申し訳ありません。

今回は前回の続きです。

真田信繁は大坂城の南側が弱点であることを見抜き、出丸を構築しました。

12月2日、徳川家康から城を攻撃する前に塹壕を掘って土塁を築くように命じられた前田利常は、塹壕を掘り始めると、それが真田丸の望楼から丸見えであり、真田信繁は真田丸の前にある篠山から火縄銃で狙撃して妨害しました。

12月4日、前田軍は篠山を奪取しようとすると、事前に察知していた真田軍は城内に撤収しました。そして真田軍は前田軍を挑発しました。前田軍は挑発に乗り真田丸に突撃すると、前田軍が城壁に近づいた時に火縄銃で射撃を行いました。これにより、前田軍は死者が続出しました。
前田軍の攻撃を知った井伊直孝と松平忠直の軍が八丁目口と谷町口に攻撃を仕掛けました。この時に城内で火薬庫で爆発する事故が起きました。徳川軍は南条元忠の裏切りの合図と思い、さらに攻めます。しかし、南条元忠は3日に豊臣軍に裏切りがばれて切腹させられていました。
後藤基次は事前に徳川軍の動きを見て、八丁目口と谷町口に兵を移動させ、空堀で身動きできない井伊・松平軍を木村重成軍などが撃ちました。
豊臣軍がほとんど被害が出なかったことに対して、徳川軍は多大な被害を受けました。

12月5日、藤堂高虎軍が城壁を越えて城内に侵入することに成功しましたが、藤堂軍を長曾我部元親軍が退却させました。

真田丸があった場所は今、大阪明星学園となっています。真田丸顕彰碑が数年前にできました。

真田丸顕彰碑の近くにある心眼寺。

こちらには真田幸村出丸城後の石碑があります。

心眼寺の中には真田信繁のお墓があります。

真田丸があった場所の近くにある三光神社には真田信繁の像があります。

ここには真田の抜穴というものがあります。

真田信繁の真田丸での戦いは本当に凄いと思います。ほぼ被害を出さずに敵をたくさん倒したのは見事な作戦でしたね。

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徳川家康は敵の不眠を誘うために夜中に鉄砲水を放ったりされ、12月10日には降伏を促す矢文を送ったりされました。

15日に豊臣側から淀殿が江戸へ人質として行くかわりに籠城浪人のための加増を条件とした和議案を出します。しかし徳川家康がこれを拒否しました。

16日には徳川軍が備前島などに設置した大砲で大坂城に一斉砲撃しました。豊臣軍は火縄銃で近づく徳川軍に対抗しました。

この付近から徳川軍は大坂城へ砲撃をされました。実際に行ってみると、大坂城までの距離などが分かりますね。

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12月16日、大坂城内で和議案に傾いており、夜襲の決行を17日に急いで決めました。塙直之は蜂須賀至鎮の重臣である中村重勝の陣が本町橋の南にあるを見て、そこを目標にしました。塙直之は夜襲参加者には槍ではなく刀を持たせて、肩に白布をつけました。そして「サイカ」と問えば「サイ」と答える合言葉を決めました。
17日の午前2時頃、塙直之は橋上に鉄砲隊を配置させ、そして中村隊を襲撃しました。中村隊は夜襲を想定しておらず、鎧もつけていなかったので一方的にやられていきました。そして中村重勝も討ち取られました。
この騒ぎを聞きつけた蜂須賀軍の援軍が駆けつけると、豊臣軍は撤退しました。蜂須賀軍は追いかけるも橋上の鉄砲隊が控えていたので、撤退しました。
この夜襲で塙直之は「夜襲ノ大将 塙団右衛門」と書かれた札をばら撒いて名を広めたそうです。

現在の本町橋です。ここで夜襲が行われたとは今では信じられませんね。

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徳川側は兵糧不足と真冬であったこと、豊臣側は兵糧と弾薬が不足していたことで、和議をすることになりました。
18日に京極忠高の陣にて本多正純と阿茶局、常高院との間で交渉が行われました。
いろんな条件があって和議が成立しましたが、注目すべき条件が大坂城の堀を埋めさせたことですね。これにより大坂城は難攻不落の城ではなくなりました。

大坂冬の陣については以上です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
豊臣秀吉の死後、五大老の1人の徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ったことなどで実権を握ると、征夷大将軍に就任するなど政権を作り始めました。すると徳川家康は邪魔な存在である豊臣家に対して服従むむえいゆてゆむえいゆてゆさせるか、拒絶されたときは処分することを考えました。

徳川家と豊臣家が対立していくと、前田利長が亡くなったことにより、豊臣家は孤立してしまいます。そして、豊臣家が再建していた方広寺の梵鐘の銘文がきっかけで徳川家と豊臣家の対立が決定的となりました。

豊臣家の家臣であった片桐且元は徳川家と板挟みされるようになり、そして次第に豊臣家での居場所がなくなっていきます。片桐且元は徳川家の家臣でもあり、豊臣家が片桐且元を処分しようとしたことは徳川家に伝わり、これがきっかけで大坂の陣が始まりました。

豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀を使って全国から浪人衆を抱え込みました。豊臣家の総兵力は約10万人となり、明石全登、後藤基次、真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永の五人衆、そして大谷吉治がいました。しかし、豊臣家の中で大野治長を中心とした籠城派と、真田信繁が提案した畿内を制圧してから徳川家を足止めしている間に諸大名を味方につけて、その見込みがないときに籠城して戦う二段構えの案で割れてしまいます。それでも豊臣家臣である大野治長の案が通りました。

慶長19年10月11日に徳川家康は軍勢を率いて駿府を出発すると、23日に二条城に入りました。
そして11月18日に徳川家康は先着していた徳川秀忠と大坂茶臼山陣城にて軍議を行いました。

大坂茶臼山陣城があった場所は今、天王寺公園になっています。大坂の陣の石碑などがありますよ。今はのどかな公園ですけど、ここに徳川家康がいたと思うと、凄いですよね。


慶長19年11月18日、幕府軍の蜂須賀至鎮は木津川口にあった砦を偵察し、家康に攻略の許可を求めました。家康は浅野長晟および池田忠雄と協力することを条件に許可しました。
しかし、浅野長晟と協力したくなかった蜂須賀至鎮は19日の朝6時に決まっていたところを抜け駆けをして早く出発して木津川口の砦を攻撃しました。豊臣軍は守将の明石全登が会議で不在だったため、砦の兵の指揮を取れず、木津川口の砦は陥落しました。
また、出し抜かれた浅野軍は急いで川を渡ろうとしたために多数の溺死者を出してしまったそうです。


豊臣方は鴫野村に三重の柵を設けて井上頼次に2千の兵で守らせ、今福村には四重の柵を設置して矢野正倫と飯田家貞にそれぞれ300の兵で守りました。徳川家康は鴫野へ上杉景勝軍5千、後詰として堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝を向かわせ、今福へは佐竹義宣軍1,500を送りました。

26日の早朝に上杉軍が鴫野の柵を攻撃し、守備隊は退却して、井上頼次は討死しました。上杉軍は鴫野を占拠しました。

また佐竹軍は今福の柵を攻撃し、矢野正倫が防戦しましたが、撤退する途中に討死しました。そして同じく守備隊を指揮していた飯田家貞も討死しました。
豊臣軍は木村重成が出撃すると、佐竹軍は少し後退しました。そして膠着状態となりました。
これを見た豊臣秀頼は後藤基次に救援を命じました。
後藤基次は木村重成を支援しながら指揮をとりました。佐竹軍は後退すると、渋江政光が前線で指揮をとり豊臣軍の進軍を一時止めるも、狙撃されて渋江政光は討死しました。
佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉軍に救援を求めました。上杉軍は大和川の中州まで出て銃撃を加え、豊臣軍は撤退しました。

蒲生にある若宮八幡大神宮。

ここは佐竹義宣が今福の戦いで本陣を置いた場所だと言われています。境内には石碑があります。

城東小学校の門の横に鴫野の戦いの石碑があります。


豊臣方は木津川沿岸の守備のために博労淵に砦を築いており、薄田兼相が700の兵で守っていました。木津川口の砦で陥落してからもそのままでした。
徳川家康は大砲で砦を攻撃するために、水野勝成と永井直勝に狗子島に仕寄を作らせました。11月28日に仕寄に完成すると、木津川口の砦の手柄がなくなってしまうと感じた蜂須賀至鎮は徳川家康に願い出ました。
また家康は石川忠総に荻の刈り取りを命じ、石川忠総は荻を刈り取った後、葦島に陣取りました。
29日に石川軍が葦島から進撃するも、満潮のために進むことができず、砦から銃撃にあってしまいます。石川忠総は九鬼守隆から舟を3隻ほど借り受けて進むと、蜂須賀軍も舟で博労淵に近づきました。
博労淵の守将の薄田兼相は前夜から遊女屋に泊まり込んで不在さだったため、守備兵の統制をとれず、砦はあっさり陥落しました。

博労淵の砦は地下鉄の西長堀駅の北側付近にあったと言われています。


豊臣方は新家に船倉を築いており、これらを守るために下福島の五分一に三重の柵と櫓を作って、大野治胤が800の兵で守り、上福島には宮島兼与が2,500の兵で守りました。
11月28日の夜に九鬼守隆、向井忠勝らの幕府水軍は五分一に攻撃をすると、豊臣軍は大野治胤率いる水軍が戦いますが、大野治胤が逃げ帰ると、怖じ気づいた砦の兵は天満方面へ逃げました。
五分一での戦いを知らなかった池田忠雄軍は29日の朝に攻撃にかかりますが、すでに敵は逃げた後でした。
これで豊臣方の水軍は壊滅状態となりました。


前から大坂の陣のことをやりたかったんですが、なかなか書くことができず、1年以上経ってしまいました。長くなりそうなので、今回はここまでです。

次回もなるべく早く更新しますね。


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