☆土佐の偉人誕生地☆ | ☆美剣雷覇☆公式ブログ 『ならぬものはならぬ』

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美剣雷覇です。

今回は歴史のことを書いていきます。
歴史のことを書いていくのはかなり久しぶりになりますね。

前回、歴史について書いたときは板垣退助さんの生誕の地について書きましたが、高知には偉人の生誕の地がまだまだあります。今回は土佐の偉人の生誕地について書いていきます。


☆河田小龍誕生地☆

河田小龍は幕末から明治で画家として活躍をされた人物です。画家としてでなく、河田小龍は16歳の頃から藩儒学者の岡本寧浦の門下に入りました。
米国から帰国したジョン万次郎と寝食を共にして、ジョン万次郎から聞いた外国の話を「漂巽紀畧」にまとめて、日本の開国に益しました。
のちに河田小龍は坂本龍馬に世界の情勢を語り、洋船操縦技術習得の急務を述べました。
亀山社中土佐海援隊で活躍をされた長岡謙吉、近藤長次郎、新宮馬之助らは河田小龍の弟子でした。

河田小龍の生誕の地は、高知の観光地であるはりまや橋の近くにあります。

生誕の地には石碑があります。なかなか立派な石碑です。


☆平井収二郎誕生地☆

平井収二郎は武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走しました。藩主である山内豊範に従って上洛し、他藩応接役として活躍しました。
土佐藩を尊王攘夷に転換するために平井収二郎は青蓮院宮に令旨を請いて藩政改革を迫りました。しかし、土佐藩の最高実力者である山内容堂が青蓮院宮に問い詰めたことで計画は失敗し、激怒した山内容堂は土佐勤王党の活動を禁止するとともに、平井収二郎を帰国させて投獄しました。そして間崎哲馬と弘瀬健太と共に切腹を命じられました。

平井収二郎の妹の平井加尾は坂本龍馬の初恋の相手であったという説があります。

平井収二郎誕生の地には石碑があります。線路横にあるので、列車の中からも見ることができると思います。


☆後藤象二郎誕生地☆

後藤象二郎は義理の叔父の吉田東洋の教育を受け、吉田東洋の推挙によって幡多郡奉行や普請奉行になりました。しかし、吉田東洋が暗殺されると、後藤象二郎は任を解かれてしまいました。
その後、藩政に復帰をされると、藩命で長崎に出張をし、そのときに坂本龍馬と会談をして接するようになりました。そして、山内容堂に説いて大政奉還を実現させました。
明治維新後の後藤象二郎は板垣退助と共に自由民権運動に参加をしました。

聖泉幼稚園の前に「後藤象二郎先生誕生之地」と刻まれた石碑があります。石碑の横には後藤象二郎の生涯が書かれたものがあります。


坂本龍馬誕生地もありますが、こちらは別の機会に紹介したいと思います。
土佐藩は有名な歴史上の人物が多いと改めて思いました。