そして、福岡藩の尊皇攘夷派による長州藩の高杉晋作と薩摩藩の西郷隆盛との会談を行なったことや、土佐脱藩浪士である坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められました。ところが西郷隆盛が直前に拒否しました。
それでも慶応2年(1866年)1月21日、二本松の薩摩藩邸内で薩長同盟の秘密会談が開始しました。
薩摩藩邸があった場所は、今は同志社大学の今出川キャンパスとなっています。明治維新後は会津藩士の山本覚馬が所有していましたが、山本覚馬が同志社大学の創立者である新島襄の学校建設に理解を示して、格安でこの地を譲ったためです。
薩長同盟の秘密会談はのちに薩摩藩邸から小松帯刀邸に会談場所を移しました。薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸貫治(木戸孝允)は互いのメンツにこだわって、同盟の成立が危ぶまれましたが、坂本龍馬が西郷隆盛と木戸貫治を説得して同盟締結に至らせたと言われています。
薩長同盟が結ばれた内容はその場で記録されず、のちに木戸貫治が記憶を頼りに会談の内容を6カ条まとめ、木戸貫治の書簡に坂本龍馬が朱筆の裏書きをされています。
薩摩藩と長州藩が手を結んだことにより、日本の歴史は大きく変わりました。