甲州勝沼の戦いで敗れた新選組は永倉新八と原田左之助が離隊すると、近藤勇は流山で新政府軍に捕らえられ板橋で処刑され、沖田総司は肺結核により死亡しました。そのあと会津戦争に参加すると、斉藤一らは会津に残り、土方歳三らは仙台で榎本武揚率いる旧幕府軍と合流しました。
土方歳三は仙台に滞在していたときは、外人屋敷で宿泊をされていました。外人屋敷の外人は“外国人”という意味ではなく、“藩外の人”を意味していたそうです。
その外人屋敷があった場所に行くと・・・
まぁ、池田屋跡地も居酒屋やし、別にいいんやけどね。
ただ、個人的に残念だったのが外人屋敷跡ということが分かるような石碑的なものが全く無いということ。今は便利な社会やから外人屋敷の跡地が分かりましたけど、やっぱり石碑的なものはあってほしいですね。外人屋敷跡地ってことを知らんかったら、ただのTSUTAYA広瀬通り店やからね。
ちなみに、おかぴーは大阪のTSUTAYAさんにはお世話になってます(笑)。
慶応4年9月3日に土方歳三は榎本武揚と共に奥羽越列藩同盟の軍議に出るために仙台城に登城しました。軍議では土方歳三が奥羽越列藩同盟の総督に推挙されましたが、土方歳三は承諾の条件として『総督の生殺与奪の権限』を提示しました。これはどういうものかと言うと、身分関係なく重臣から一兵までの命を自分の思いのままにさせてほしいというものです。つまり、逆らう者は制裁するということ。これに重臣たちが反対すると、土方歳三は席を蹴って退出したそうです。仙台藩はこのあと9月15日に降伏し、旧幕府軍は蝦夷地に向かいました。
仙台の観光地である仙台城跡。
奥羽越列藩同盟の軍議が行われたという本丸大広間の跡地は、有名な伊達政宗像の後ろにあります。どの場所に何の部屋があったか分かるようになっていました。土方歳三が席を蹴ったのは、どの部屋だったのでしょうか。
なかなかの雰囲気を出していました。
この場所に土方歳三や島田魁がいたと思うと、なんか感動します。
時間がなかったのでバタバタしてましたが、いつかゆっくり林香院に訪れてみたいですね。