寿永二年十月宣旨 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


注意●ネタバレあり
◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
第14回『都の義仲』


木曽義仲〈青木崇高〉


倶利伽羅峠の戦いに大勝利した
木曽義仲の入京

源頼朝にとっては
ライバルに先を越されたことになります

まるで不利な状況に陥った
頼朝でしたが
後白河法皇との巧みな駆け引きで
逆転
義仲を窮地に追い込みました

その秘策が「寿永二年十月宣旨」です

「宣旨」は
天皇からの命令のことですが
「寿永二年十月」の場合は
実質的に後白河法皇の命令でした

義仲入京は歓迎したものの
どうにも期待はずれ
愛想を尽かした法皇は
鎌倉の頼朝方
おそらく大江広元からの誘いで
裏取引に応じたのだと思います

この時点で
未だ頼朝は平治の乱の罪人だったわけで
まずは最初に
その身分を回復したようです

(配流前の従五位下右兵衛権佐に叙せられ
 謀叛人の立場から脱却しました)
 


宣旨の原文を正確に伝える史料は
現存しません

Wikipediaによると
1 東国における荘園・公領の領有権を
従来の荘園領主・国衙へ回復させること
2 その回復を実現させるため
源頼朝の東国行政権を承認する
という2つの内容から
構成されているようです

東国の範囲も
確かなことはわかりません
東海道、東山道は書かれていますが
義仲に配慮して
さすがに北陸道は削られたとのこと

この宣旨により
後白河法皇側は
平安京の食糧事情に
ある程度の目処がつきました

また
鎌倉の源頼朝側は
何度も繰り返しになりますが
東国に大きな影響力を持つことになり
つまりは
義仲に優越したわけです

で、
東国の税をまとめ
京へ納める名目で
代官として
源義経、源範頼が
派遣されることとなります


木曽義仲は

戦に勝ちまくり

京都に入りましたが

源頼朝のほうは

後白河法皇を利用し

自らは鎌倉を動かず

一戦を交えることもなく

義仲を追い込むことに成功した

ということなんですねー




このあとは

法住寺合戦について

勉強してみようと思います。。。