注意●ネタバレあり
◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
第10回に登場した義円
早くも次回
「墨俣川の戦い」に向かうようなので
『吾妻鏡』
○治承5年(1181)3月
参考までにまとめておきます
○3月1日
頼朝の母の忌月です
土屋義清が亀ヶ谷堂で法事をしました
(例の岡崎義実が建てた堂)
導師は箱根権現別当の行實
請僧5人、専光坊良暹、大夫公承栄、
河内公良睿、専性房全淵、浄如房本月
頼朝はお経をお聞きになりました
御布施は導師に馬一頭、絹二疋
請僧は口別に白布二反
亀ヶ谷堂跡に建立された寿福寺
○3月6日
伊勢の大中臣能親から中八維平にきた手紙
(内容要約)
正月19日、熊野の悪僧仲間が神宮に濫入
御殿を壊し神宝を盗みました
26日には、宇治山田に襲来し民家を焼失
資財を奪っていきました
天照大神鎮座以来このような悪例はないです
源氏が復興する機会、なおさら大事にすべき
頼朝は信心深く
神宮に願い事があるので
取り計らうよう伝えてほしいとのことです
武田信義〈八嶋智人〉
○3月7日
三善康信から手紙で言ってきました
先月7日 後白河院で会議があり
武田信義に命じて頼朝追討の
院庁の下文を出すよう決められました
諸国の源氏を攻める話はなく頼朝に限ること
風聞の趣旨はこのようなものです
武田の裏切りは無いと言い切れません
子細を信義に尋ねたところ
駿河国より今日参着しました
自分は追討の事は受けていない
例え命令されても受けるつもりはない
去年の度々の戦功で わかってもらえるでしょう
と再三弁解した上
子々孫々が頼朝の子孫に弓を引かない旨を
起請文に書き献上したので会うことにしました
なお用心して
三浦義澄、下河辺行平、佐々木定綱、盛綱、
梶原景時を呼び、左右に座らせたとのことです
源行家〈杉本哲太〉
○3月10日
源行家(頼朝の叔父)は
子息の太郎光家、次郎
僧義円(卿公と号す)泉重光ら
尾張、三河両国の勇士を引き連れて
墨俣川(すのまたがわ)に陣を構えました
(現在の長良川)
平氏大将軍重衡、維盛、通盛、忠度、知度、
盛綱、盛久らが、川の西岸におりました
晩になり行家は密かに計略をめぐらし
平家を襲撃しようとしたところ
重衡の舎人の金石丸が馬を洗おうと川まで来て
東軍の動きを見て走り帰り報告しました
行家が未だ出陣前に重衡の随兵が源氏を攻撃
縡が突然に起き、行家の従軍ら非常に慌て
戦いましたがイイトコ無し
義円は盛綱に討ち取られました
次郎は忠度に生け捕られ
泉重光は盛久に討ち取られました
このほか軍兵は川に溺れたり、傷を受けたり
死者およそ690余人になりました
義円〈成河〉
○3月12日
諸国いまだに平和とは言いきれず
(平家の巻き返しの心配など)
頼朝は不安が無きにしも非ずです
なので諸社に立願しています
今日は先ず
常陸国塩浜、大窪、瀬谷の荘園を
鹿島社に寄進しました(後略)
○3月13日
安田義定の使者、武藤五?
遠江国より鎌倉に参着して言いました
義定は頼朝の代官、遠江守護として
平家襲来に待っています
とりわけ橋本(浜名湖)に向かい
防備を厳重にしようと、人夫を募ったところ
浅羽宗信、相良三郎らは
私を蔑んで協力しません
そればかりか私義定が立っているのに
馬に乗りながら前を通りました(乗り討ち)
これはすでに野心を持つものです
彼らの一族は今や多く平家に味方します
速やかに刑罰を加えてほしいです
○3月14日
浅羽宗信、相良三郎のこと
一方の話で罪には出来ないと
武藤に言ったところ
彼らの怪しからん行為を訴えるため
使者を出したと国中に触れました
裁許をもらわず空手で帰れば
主人安田の権威が無いと同じです
後日もし間違いの訴えだと聞かれたならば
使者を斬罪にしてください
と言いました
この発言で
その領地は安田義定の支配で命令を聞くよう
文書が出されました
ただし宗信らが後日弁明して理由があれば
かえって訴えた人(安田側)の罪とすると
これを書き加えました
○3月19日
尾張国の大屋中三安資が
鎌倉へ馳せ参じ申し上げました
10日源行家が墨俣川で平家と合戦しました
行家の従軍は悉く滅亡しました
平家が勝ちに乗じてる間
そこを去り熱田神宮に隠れました
先陣が敗れた上は
重衡ら平家はこちらに来るかもしれない
とのことです
尾張国の在長官人ら多くが平家に従うのに
安資だけ頼朝に忠義を尽くしているようです
熱田神宮外玉垣御門(拝殿)
画像はWikipediaより借用
○3月27日
片岡常春に謀反の疑いがあるので
雑色を彼の領地下総国へ遣わして
呼び出したところ
領内へ乱入したといって
使者を傷つけ面縛したそうです
罪を重ねたので、領地没収
早く件の雑色を鎌倉へ送るよう命令しました