さてと鎌倉入り | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


注意●ネタバレあり
◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
第8回予習
『吾妻鏡』を読み進めます
○治承4年(1180)


源頼朝〈大泉洋〉


○10月2日
武衛(頼朝)は 千葉常胤 上総介広常の舟に乗り
太井川(江戸川)と隅田川を渡りました
精兵は三万余騎におよび 武蔵国に赴きます
豊島清元と葛西清重が最初に参上しました
足立遠元は命じてあるので迎えに来るとのこと
頼朝の乳母で故八田宗綱の娘
(小山政光の後妻で寒河尼と号す)が
最愛の末息子を連れて隅田宿にやって来ました
すぐに御前に呼んで思い出話をしたところ
息子を奉公させたいと望みます
そこで頼朝が直に烏帽子親となって元服させ
小山宗朝と名づけました(のちに朝光と改名)

千葉常胤〈岡本信人〉


○10月3日
千葉常胤、厳しく命じて
息子や家人らを上総国へ遣わし
伊北常仲(伊南常景の子)を追討しました
千葉胤正(常胤長男)が専ら勲功を竭し
常仲は長狭常伴の甥なので誅殺しました

畠山重忠〈中川大志〉


○10月4日
畠山重忠が長井の渡しに
河越重頼 江戸重長も参上しました
(現在の白髭橋あたり)
これらは三浦義明を討った者たちです
三浦義澄以下の子息門葉
その多くが供に候い武功をあげています
重長らは源氏に敵対し三浦を射たけれども
大勢の輩をまとめないと
縡(こと)は成し遂げられません
忠義を尽くすには
怒りを残すべからずと
三浦一族には仰せ含めてあり
異論なしとのことなので
お互い目を合わせ列に並び座りました

○10月5日
武蔵国の諸雑事等(労働奉仕の万雑公事)は
在長官人や郡司らに処理させるよう
江戸重長に命じました

○10月6日
相模国に着きました
畠山重忠が先陣に立ち
千葉常胤がしんがりに候います
およそ頼朝に付き従う軍士は
幾千万を知らず(数え切れません)
急だったので
居館を作る暇もなく
民家を借りて宿泊していました

元八幡(由比若宮)平成27年(2015)11月4日


○10月7日
先ず 鶴岡八幡宮(元八幡)を遥拝
次に 故源義朝の亀ヶ谷の旧居跡を見に行きました
直ぐにこの場所に館を建てようと
一旦は決めましたが、地形が広くなく 
また 岡崎義実が
義朝供養のため堂宇を建てていたので
やめることにしました(現在の寿福寺)

寿福寺総門 平成27年(2015)11月16日


○10月8日
足立遠元は日頃からよく働き
直ぐに命令に従い参上するので
元からの郡郷(足立区 川口 浦和あたり)
を領地として認めると
仰せになりました(本領安堵状の発出)

○10月9日
大庭景義を奉行として
頼朝の御亭の作事を始めました
ただし直ぐには難しいので
しばらくは
知家事(公文所の役人)の山内の館を
移築することにしました
この館は正暦年中(990〜995)建立の後
未だ火災に遭っていないのは
安倍晴明の札を貼ってあるからです

北条政子〈小池栄子〉


○10月11日
御台所(政子)が鎌倉に入りました
景義がこれを迎えます
昨夜 伊豆国秋戸郷より到着しましたが
日柄がよろしくなかったので
稲瀬川の辺の民家に泊まりました
伊豆山走湯権現の専光坊良暹が
前々からの約束で参着しました
頼朝にとって昔から仏教の師とのことです


鶴岡八幡宮(本宮楼門)平成29年(2017)4月5日


○10月12日
寅の刻(午前4時頃)
祖先からの八幡宮を崇めんがため
小林郷の北山を決め 宮廟を構え
鶴岡宮をここに遷し奉りました
専光坊をしばらく別当職につけ
景義が宮寺の事務を執行します
武衛(頼朝)お清めをされて
八幡宮の御在所、新旧の用捨、
なお心配され、神のお告げを聞かれ
自らクジをひいて、この場所に決めました
しかしまだ、綺麗な飾りはせずに
茅葺きの社殿を造りました
本社は、後冷泉院の御代
源頼義が勅命を奉り
安倍貞任を討伐した時
康生6年(1063)8月
密かに石清水八幡宮から勧請し
由比郷に瑞垣を建てたもの
永保元年(1081)2月
源義家が修理をし
今またその子孫(頼朝)が
小林郷に遷して
頻繁(浮き草と白蓬)を供え祀ったのです




『吾妻鏡』
頼朝一行が鎌倉入りした後
大庭景義(おおばかげよし)
という名前が頻出します
石橋山で戦った敵将
大庭景親の実の兄だそうです

★大庭景義
源義朝に忠誠を誓い保元の乱(1156)出陣
源為朝の矢で負傷、以降 歩行困難になり
家督を弟の景親に任せ 隠棲します
源頼朝挙兵(1180)により
弟景親と袂を分かち頼朝に従います
後に頼朝から景親の助命を打診されますが
全てを頼朝の裁断に任せたといいます
草創期の鎌倉幕府において
長老格として重きをなしました